二記_転換点

 「お亡くなりになりました」

 担当医は淡々とそう言った。病院ではありふれたことだからだろう。その人は言葉を口にするとすぐに出ていった。俺はその場から動けなかった。

 病室の丸椅子に座った状態でどのくらいの時間が経過したのか。視界は床をぼんやりと捉えている。組んだ両手の熱だけがまだ生きていることを立証していた。

 「おい、坊主。いつまでそうしてる。風邪引くぞ」

 その声が俺を現実に引き戻した。声の方に首だけを動かす。すると人が一人立っているのが見えた。暗い病室からは逆光で、顔は視認できない。ただ、その動作を皮切りに周囲の情報が感覚器官から伝達され始めた。俺はいつの間にか辺りは暗くなっていることを知り、そして窓からの風を肌寒く感じる。

 「こっちに来い」

 その人の口がそう動いたように見えた。手招きに従うように俺は病室の出口に向かう。そこまで行くとその人は俺の手を力強く握り、歩き出した。シワだらけの手には不思議な温かさがあった。

 半ば強引に連れてこられたのは病院一階、駐車場の自動販売機の前だった。特に迷う様子もなく、ボタンを二回押して出てきたものをこちらに差し出してくる。

 「ほれ、おしるこ」

 それに反応できないでいるとぐいとそれを手に押し付けられる。続いて近くの横長のベンチにその御人はどしりと腰を下ろした。缶コーヒーを一口飲むと、横に空いたスペースを平手で叩き、ここに座れという意思を伝えてくる。

 「とりあえず、飲め。あったまるぞ」

 言われるがまま栓を引き、両手で抱え込むようにしてそれを持ち口元に運ぶ。

 「……甘い」

 俺はそれだけ呟いた。

 「味覚があるなら上等」

 会話らしいものが止まる。しばらく、俺のお汁粉を啜る音だけが響いた。俺がそれを飲み終わるのを見てとるとその人は話し始めた。

 「……なあ、少年。悔しいか」

 それを聞いた途端、ベッドに横たわっていた歩夢の姿が想起される。冷たかった身体に熱が宿り、奥歯に強い力がかかる。俺はそれに抵抗しながら言葉を絞り出した。

 「あっっったりまえだ。何も……できなかったんだ。俺も医者も…。誰にも何も」

 行き場のない怒りは手を強く握るという形で現れた。尋常ではない力が右手に伝わり、震える。脳が熱くなり、目が見開かれる。呼吸が早くなるのを感じる。

 「そうだな。今回俺らは何もできなかった」

 老人はそう口にする。

 「医者なのに助けられないのかよ!」

 思わず俺は立ち上がり、その人に向かって叫んだ。それが野外に響き、反響する。怒号の余韻が薄くなり、頭から熱が引いていくと次第に理性的に考えられるようになる。

 しまった、と思った。医者だって万能じゃない、誰だって知っている事実だった。

 立ち上がった際に取り落としたおしるこの空き缶が老人の足元で止まる。

 「………」

 俺は缶を拾って再び腰を下ろした。激情は冷め、気まずい空気を避けるように空の缶を口元にやる。もちろん、一滴の雫も落ちてこない。

 「今は無理だ。今はな。だが、助けられた可能性ならある」

 俺はその言葉に唆(そそ)られ、飲むふりをして興味がないよう取り繕いながら、視線だけを爺さんに送る。

 「…テーラーメイド医療」

 老人は俯いた顔を上げて呟いた。すると今度は俺の方を向いて話し始める。

 「お前が今まさにしている無力ゆえの絶望。わかるだろ、それは人が経験しなくていいに越したことがない類のやつだ」

 「……」

 「今言ったことについて来週までに調べてこい」

 その医者は勝手に話を進めると残りの缶コーヒーを呷り、ゴミ箱に投げ入れて去ってしまった。

 俺はこの後、しばらくそのまま動かなかった。飲み終わった缶を捨てることもせず、その人がいなくなった方だけをじっと見ていた。勝手な人だな、という表面的な感想と、話の内容への興味が入り混じっていた。

 「『助けられた可能性』…か」


 俺は一週間をかけて『テーラーメイド医療』について調べ再度、病院に行った。

 テーラーメイド医療とは個人の遺伝子を調べ、その結果から薬を処方しようというものだった。現在の『Evidence based medicine』と呼ばれる大多数の平均と医者自身の経験則から薬を処方するやり方とは正反対のものである。

 その日の次の週、俺は再び病院へと足を運んだ。あの日話しかけてきた医者の名前がわからなかったから、院内で聞き込みをする羽目になった。その時に「俺が聞き込みをしていること」がその人の耳に入ったらしく、近くにいた看護師から待合室で待つように指示を受けた。

 「思ったより早かったな、少年」

 しばらくすると、例の医者が入ってきて少々驚いたような表情をした。

 「興味があっただけだ。『助けられた可能性について』な」

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