26 豚汁と狐目の男

 豚肉とごぼうと大根と人参の入った熱々の豚汁を飲んだ春は、はー、と幸せそうな声を上げて頬を緩ませる。今日のメニューは豚汁とカレイの煮付けと白ごはんだ。


「春さんも一味、使いますか?」

「いえ。このままでいただきます」


 夢中で一気に食べきった春は、ごちそうさまでした、と手を合わせる。


「今日もとってもとっても美味しかったです。幸せです」

「よかったです。やっばり春さん和食のとき食べるの早いですね」

「魚を食べたら白ごはん食べたくなるし、白ごはん食べたら汁物が飲みたくなって、汁物を飲むと魚を食べたくなるんですよ……!」


 孝太郎は、無限ループだ、と笑う。食器を洗い終えた後で孝太郎が食器を拭く春に尋ねた。


「春さん今日はお仕事ないですか?」

「単行本作業昨日に頑張って終わらせました。日曜なのでゆっくりしたくて……」


 孝太郎が、よかった、と言ってそっと伺うように軽いキスを仕掛けてきた。春が拒絶せずに幸太郎の首に腕を回してキスに応えると、孝太郎は言った。


「あっち、座りませんか?」


 ベッドに並んで座ると孝太郎は春にまたキスを仕掛ける。触れるだけのキスを数回してからそっと舌を春の口に挿入した。春はひっそりとベッドシーツを掴みながら、まだ慣れない覚えたてのディープキスに応える。このいやらしいキスをするようになったのは、ゲイバーの帰りに春がキスより先に進みたいと言ってからだ。孝太郎に求められて、オッケーした。柔らかい唇を押し付け濡れた舌を触れ合わせていると春は頭がすぐにポーッとしてきてしまう。身体がぐにゃっとするほど力が入らなくなってそのまま、為す術もなくベッドに押し倒される。そんな春に孝太郎は覆いかぶさる。触れるだけのキスをしながら孝太郎はするりと、春のトレーナーの裾から手を滑り込ませてきた。孝太郎の大きな手が、春のおへそのまわりや横腹を撫でる。


「……ぅ……」


 孝太郎に直接素肌に触れられると身体がゾクゾクッと震えて身体中が熱くなり、頭がどんどんフワフワしてきてしまう。濃いアルコールをイッキ飲みしたかのようにわけがわからなくなってしまい、怖気づいた春は胸元に伸びかけた孝太郎の腕を掴んで止めた。


「やめますか?」


 春は、こくこく、と頷く。孝太郎が春の服の裾から手を抜いて、横にどいたのでようやく春は、ふー、と呼吸を整える。先に進みたい、などと自分から言い出したものの春はこれが今の限界だった。春の横に寝転んだ孝太郎が言った。


「あの……もし嫌なら言ってくださいね」


 そう言ってきた孝太郎に春は、もう、と胸を軽く叩いた。


「何回も言ってるじゃないですか。嫌だったら蹴り飛ばして逃げてます。ぼくだって男ですよ。ただ……何回しても慣れないだけです」


 そう言って孝太郎のシャツを掴んで引き寄せて、今度は春から唇にキスをした。自分から深い口づけをするなんて事はできないけれど、触れるだけのキスならできる。キスを春からするといつも孝太郎は嬉しそうだった。キスしながら孝太郎はさりげなく、春の乱れた衣服を整える。そういった些細な仕草1つで春は不安になっていた。キス止まりの時はわからなかった、経験値の差が顕在化していた。孝太郎はディープキスをしても春みたいに腰砕けにならないし、どこか余裕がある。そのことが春を焦らせていた。だからせめてゲイバーですることを聞いて心の準備をしておきたかったのに、と春はひっそりとため息をつく。


「何考えてるんですか」


 そう言った孝太郎が不安げに春の顔を覗き込む。春はそんな孝太郎の頬を撫でて、答えた。


「孝太郎くんの事好きだなぁって考えてたんですよ」


 孝太郎が不安そうにするたびに春は、好き、と伝えるが孝太郎は何回キスしても不安そうだった。早く安心させてあげたいのに、うまく応えてあげられない自分に春は苛立ちを覚える。また春から触れるだけのキスに誘ったら孝太郎が、あ、と声を上げて中断した。


「外、なんか階段を上る音が……」


 孝太郎の言うとおり、外階段を上る誰かの足音が聞こえてきた。2階は3部屋しかない。春と孝太郎の部屋を通り過ぎた1番奥の部屋は空室だ。


「内見でも来たんじゃないですか」


 そう言って再びキスを仕掛けようとする春を止めて、孝太郎は言った。


「でもやけにバタバタしてませんか。ちょっと、見てきます」


 孝太郎がドアを開けて外を覗くとハイツの前に引っ越しのトラックが止まっていて、作業員が空室だった奥の部屋に荷物を運び入れている。孝太郎の後ろから顔を出した春は言った。


「入居されたんですね。どんな人だろう。あそこ、前に住んでた方はシングルマザーの親子だったんですよ」

「そうなんですね」


 孝太郎はもう興味を失ったようで、戻りましょう、と春を誘う。しかし作業員の後ろから階段を上がってきた男がこちらに声をかけてきた。


「コタロー」


 その男は狐のような細い吊り目の、シュッとした白に近い金髪の男だった。面立ちがくっきりとした孝太郎とはまた違うタイプの派手な色男だ。孝太郎は彼を見て、あきらさん、と呼んだ。明と呼ばれた男は口角を上げて親しげに孝太郎に片手を振る。


「どーや。びっくりしたやろ」

「え、いや……めちゃくちゃびっくりしましたよ。こんなとこで何してるんですか?」


 明はまわりを見渡して、答えた。


「何って見たらわかるやろ。引っ越しや。お前の客やったマダムにこのハイツ紹介してもろてん。ここ家賃激安やなぁ」

「引っ越しって……そんなん来る前に言ってくださいよ」

「サプライズ。また仲良ぅしよう思って、お前と」


 そう言って明が孝太郎の手を掴み、指を絡めるように握った。しかし孝太郎はすぐに振りほどいた。


「ちょっと! 明さん、困りますって」


 へぇ、と言った明は孝太郎の横にいた春の顔を覗き込み、こんにちは、と挨拶してきた。


「こ、こんにちは……」


 春がおずおずとそう返すと、明は孝太郎に聞いた。


「今日引っ越し終わったら家遊びに行ってもええ? 久しぶりに飯食わせてや。これもしかして豚汁の匂いちゃうん。おれ1番好き」

「今日は先約あるので駄目です」


 そう孝太郎が断ると明は春を一瞥して言った。


「なぁ、この子家どこなん? タク代出したるから帰らせぇや」

「何言ってるんですか。そんなことしませんよ。それに春さんはこのハイツの住人でおれの隣です」


 明は、ああ、と家の並びを見て言った。


「ほんで、お隣さんとお前こんな日曜に家で何してんの」

「何って……今おれ付き合ってるんですよ。この人と」


 孝太郎がそう言うと明は細い目を見開いた。春の顔からつま先までジロッと眺める。


「お前、子供はやめとけや。じょーれーで捕まるぞ」

「おれより歳上です!」


 子供、と言われて春はムッとしたが明も孝太郎に負けないくらい背が高いので並ぶとかなり自分が小さく思える。明がさらにからかうように言った。


「ちょっと手近で済ませすぎちゃうか〜。そんなに彼氏欲しかったん」

「失礼なこと言わないで下さい! おれが好きで、付き合ってもらってるんです。好きじゃない人と付き合ったりしません」


 明が、へぇ、と感心したように言った。


「それにしてもお前ラッキーやなぁ。たまたま横の住人がゲイやったなんて。東京てそんなゲイ多いんか」

「いや……春さんは、違いますけど……」 


 孝太郎がそう言うと明は目を丸くした。


「お前ノンケと付き合ってんの!?」

「悪いですか」

「悪くはないけど、セックスできんやん。中学生やあるまいし、そんなんで付き合ぅてるって言えんの?」


 今まさにそのステップに進もうと苦戦しているところなのに、と春は眉をひそめる。


「ドア閉めますよ」


そう言った孝太郎を無視して、明はドアに手をかけて春に話しかけた。


「だってノンケからしたら男の裸なんかキショいだけやんなぁ。ちんこ勃てて襲ってこられたらサブイボ立つやろ。血迷ってんと早よ逃げや」


 春が答える前に孝太郎が割り込み口を挟んだ。


「……明さん、下品なこと言うのやめてください。もう、閉めますからドア離してください」

「なんや冷たいな。大阪であんだけお前の世話焼いたのに。まぁええわ。東京やったらコタローが先輩やし。店なぁ、コタローのとこ行こと思ってるから明日紹介して」


 孝太郎は、ほな片付けしてこよー、と言って明はドアから手を離し孝太郎の隣の部屋に入っていった。部屋に戻ってから、春は孝太郎に言った。


「ぼくそんなの思ってないですからね! だっていつもちゃんと……」


 気持ちいい、と伝えたいのに春は口にできない。あの頭がフワフワして身体がジンジンする感覚が気持ちいいということだもわかっているのに、それを口にして伝えるのが恥ずかしい。まごついていたら孝太郎が言った。


「あの人おれが大阪でホストしてた時の先輩なんです。失礼ですみません。決してその、根が悪い人ではないんですけど……たまにめちゃくちゃ感じが悪いというか、その、嫌な人の時があって……今日は嫌な人の時でした」

「彼も……ゲイなんですか」

「あの人はゲイじゃなくてバイセクシャルなので特別男だけが好きなわけでもないみたいです」


 春はさっき明が孝太郎に手を絡めて繋いできたことが気になって、言及した。


「ただの先輩、なんですよね」


 そうです、と孝太郎が答えたので春はもやもやを飲み込む。しかしもう終日、孝太郎から春に触れることはなかった。あの男の言葉を気にしているのか孝太郎の気持ちが離れたのか気になって春は自分から孝太郎に触れて、拒絶させなかった事にひっそりと安堵する。春は春で“付き合ぅてるって言えんの”と言われてしまったのがずっと心に重くのしかかっていた。

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