18 フレンチトーストと傷心男

 早朝、ピンポーン、とインターフォンが鳴る。春が、はい、と返事をするとそっとドアが開かれた。孝太郎が少し緊張しながら顔を出す。


「入っていいですか」


 春の部屋は作業机の周り以外はスッキリと片付けられていた。孝太郎のあげた服はきちんとハンガーにかけられ吊るされている。ベッドの向かいの2人がけのブラウンの革張りのソファに腰を下ろした。孝太郎は申し訳無さそうに尋ねた。


「おれが来ても大丈夫でしたか?」

「え?」

「弾みで行くと言ってしまいましたが、よく考えれば……ゲイバーで嫌な思いをした後で自分の部屋にこんな図体のでかい男が来るのは今は嫌かと」

「そんな、嬉しいです。来てくださって……」


 シン、と沈黙が続いてから孝太郎が、ふー、と息を吐いた。


「今から、嫌な事を言ってもいいですか」

「嫌なこと?」


 突然の孝太郎の不穏な言葉に春は不安げに眉をひそめる。


「ずっと言うつもりなかったのですが……それを隠したまま今ここにいるのは凄く良くないことだと思うので」


 何を言われるのだろう、と緊張した春は息苦しさを感じる。孝太郎は、ごめんなさい、と頭を下げた。


「あの……ゲイバーで何があったのかわからないんですけど……その……おれも……ゲイ、なので……だからもし今すぐ出て行けと春さんが言うなら、帰ります……」

「え!?」


 一瞬何を言われたのかわからなかったし、聞き間違いかと春は自分の耳を疑った。よくわからないといった様子の春に孝太郎はさらに言った。


「恋愛対象は、男性だけです。だから……気持ち悪いなら、出ていきます」


 そう振り絞るように言って俯いた孝太郎に春は力強く否定した。


「気持ち悪いわけないじゃないですか!!! 孝太郎くんを気持ち悪く思うなんてありえない!! そんな風に言わないでください」 


 孝太郎は、よかった、と少し安心したような笑顔を見せた。


「あ〜……緊張した。すみません。言いそびれてしまい……仲良くなればなるほど言いづらくて」

「言いにくい事を言ってくれてありがとうございます。孝太郎くんのそういう誠実なところ……好きです」

「誠実かはわかりませんが……ありがとうございます」


 それから春はぽつりぽつりと、昨日のことを話した。RAIZEという店に行ったこと、そこで円香が席を外したタイミングで変な男に絡まれたこと、耳を舐められたこと。春は自身の耳を触りながら言った。


「お風呂でよく洗ったんですけど、感触ってなかなか消えないですね」

「春さん……」


 ソファの上で膝を抱えて座る春は目をそらしたまま孝太郎に言った。


「今から変なお願いしてもいいですか」

「変なお願い?」

「嫌ならすぐに断わって下さい。あの……ここに、キス……してもらえませんか。感触、上書きしたくて」


 春が自身の耳を触りながらそう言った。しかし言ってから恥ずかしくなったのか、やっぱりいいです、と取り消そうとしたがそれより早く孝太郎が動く。春は優しく頬に触れられ、耳に軽く口付けられた。


「ッあ……」


 ただ、ちょん、と一瞬唇が触れただけなのに春の身体はビリビリ、と電気が走ったように痺れた。変な声が出たのが恥ずかしくて口を押さえる。孝太郎はそんな春から離れてから、上書きできましたか、と尋ねた。


「はい……できました。ありがとうございます……」


 むず痒い空気の中、沈黙が続く。しかしぎゅるるる、と盛大に鳴った腹の音でその静寂は破られた。


「……ごめんなさい……昨日の夜、食べそびれて……」


 そう恥ずかしそうに言った春に孝太郎は言った。


「はは。何か作りましょうか。あるもので。何があったかな」


 春の家には食材がないので、2人で孝太郎の家に移動した。しかし珍しく、孝太郎の家にも食材は少なかった。


「食パンはあるんですけど具材になるような物は何も……卵と牛乳は余ってたのでフレンチトーストなら作れますがごはんというよりおやつっぽくなっちゃいますね」


 買い物行こうかな、と呟いた孝太郎に春が言った。


「フレンチトースト! 好きです……!」


 春は遠慮して言っている様子はなく、目をキラキラと子供のように輝かせていた。


「じゃあ作りましょうか。冷蔵庫から卵と牛乳、出してください」


 春が卵と牛乳を出すと孝太郎は深めの大きなお皿に卵を大胆に割っていき、そこに牛乳と砂糖を目分量で入れて混ぜて卵液を作り出した。食パンを適当なサイズに切り、作った卵液に食パンをしっかりと浸す。


「本当はしっかり寝かせた方が美味しいんですけど今日は時短でいきますね。あ、紅茶入れましょうか」


 そう言って孝太郎はプラスチックのポットを取り出し、中に茶葉をザバっと入れた。そこにお湯を注ぐとふんわりといい香りが漂う。紅茶を蒸らしながら孝太郎は大きなフライパンでバターを溶かし、卵液に浸した食パンを重ならないように置いていった。


「お皿出してください」


 春が白くて大きなお皿を出すと、幸太郎は両面しっかり焼いたフレンチトーストを次々とお皿にあげていく。あっという間に完成した。2人分のマグカップに熱い紅茶を注いでからローテーブルに向かい合って座り、いただきます、と手を合わせる。孝太郎は、忘れてました、とキッチンからはちみつを持ってきて、どうぞ、と差し出す。春はフレンチトーストにはちみつをかけて一口、パクっと食べた。春の顔がとろん、と緩む。


「ん〜! 甘くて美味しい! 朝に甘いのも、いいですね」

「血糖値がガーッて上がる感じしますね」

「熱々の紅茶も美味しい……幸せ……」

「はは。春さんが幸せになってくれて良かった」


 そう言って笑った孝太郎に、春は見惚れる。不意に、こんな素敵な人がゲイなんだなぁ、と考えてしまった。しかし春は浮足立たず、落ち着かないと、と自分に言い聞かせる。要するに一応自分が孝太郎にとって恋愛対象の性別である、というだけの話だ。今まで恋愛対象の性別であるはずの異性から全くモテなかった事を思い出し、春はあまり期待しないように努めた。


 一方孝太郎は……かなり動揺していた。よくよく考えれば食材がなくても冷凍庫になにかしらのストックがあったはずなのに、それを失念するほど平常心ではいられなくなっていた。ゲイだとカミングアウトして受け入れられただけではなく、他の男に触れられた耳にキスして上書きして欲しい、などと言われたのだ。春がすぐに取り消そうとした事には気づいていたが、止まらなくなって耳に口づけてしまった。すると春は、甘い声を上げ、顔を真っ赤にして目を潤ませたのだ。その時の春の声が未だ孝太郎の耳にこびりついている。春の腹が鳴って空気が変わってくれてよかった、と孝太郎はホッとしていた。あのままでは今度は自分が春にトラウマを与えるようなことをしていたかもしれない、と一瞬理性を失いかけた己を心の中で激しく叱責した。

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