17 飴とゲイのオジサン
人の多い夜の新宿駅から少し離れたコンビニを待ち合わせ場所に指定した円香は、あらわれた春の姿に驚いた。バッサリと髪を短くした春が想像以上に垢抜けていたからだ。服もいつものピタッとしたパーカーとジーンズとダウンジャケットのようなのではなく、ダボッとした白いシャツに黒スキニーを身につけていていてその上からオーバーサイズの黒いコートを羽織っている。
「お待たせしてすみません……あの、円谷さん?」
そう不思議そうにした春に円香はハッとして言った。
「先生! あの、びっくりするほどめちゃくちゃイケメンになってますよ! 私先生のポテンシャルを侮ってました! すごいです!イケメンです!」
「大声でそれは恥ずかしいです!」
そう慌てた春に円香は、すみません、と謝る。春の変身ぶりに驚く円香に春は説明した。
「実はお隣さんが美容院に連れて行ってくれて、横からオーダーも代わりにしてくれて……あとこの中の服は頂きました。このコートはお隣さんと別の日に買いに行って……」
「なるほど……」
見違えるほどかっこよくなった上にお隣さんとも親密にしているようなのに春は浮かない顔をしていた。円香はおそるおそる聞いた。
「先生、もしかしてその時にお隣さんと何かありましたか……?」
「いえ、何も。ただ……思うところあってちゃんと諦めることにしました。やっぱりぼくに彼は不釣り合いですし……男に好かれても嬉しくないでしょうし」
「そんなことはないと思うのですが……」
正直以前はあまり釣り合っていないように見えたが、今の垢抜けた春ならカップルと聞いても違和感はない。それに……と円香はあらためて春を眺める。彼が代わりにオーダーしたというこのヘアスタイルはあまりにも春によく似合っている。わざわざ一緒に美容院に行き、あげく服まであげた上に買い物も付き合うなんて面倒見が良いなと円香は疑問に思った。
「お隣さんとは日頃どういったお付き合いを?」
「あ……孝太郎くんが食事を毎日作ってくれて……」
「え、毎日ですか!?」
想像以上に濃いご近所付き合いの密度に円香は驚いた。そんな円香に春は慌てて付け加える。
「あ、でもお店のお客さんにもよく作ってるようですし自炊のついでと言ってましたし……あとはネームを読んでアドバイスくれたり漫画を褒めてくれたりして、とにかくすごくいい人なんです」
ゲイだと知らない春には純粋な厚意に見えているようだが、ゲイだと知る円香には特別な好意に見える。以前ゲイバーで鉢合わせた時に孝太郎がわざわざ口止めしてきたのは、もしかして春に特別な気持ちがあるから知られたくなかったのでは、と円香は思い当たる。そんな春をゲイバーになんて連れて行っていいのかしら、と円香は迷ったが春は、行きましょう、と声をかける。
「ばっちり取材しますので」
そう言う春に担当編集として、やめましょう、とは言えず円香は友人のゲイに教えてもらったゲイバーへと春を案内する。
「私は行ったことない店なんですけど、友人の行きつけがここだと聞きまして」
新宿2丁目の端の方の雑居ビルの3階にそのRAIZE《レイズ》という店はあった。店内は薄暗く、GREENしか行ったことがなかった円香は少し驚く。パッと見て女性客は円香しかいなかった。というか雰囲気が少し異様で、GREENよりもなんだか客同士の距離が近く腰を抱いていたり脚を絡ませて座っていたりする。人目を憚らずキスしている男たちもいた。円香はヒソヒソと春に言った。
「ごめんなさい。思ってたより不健全な雰囲気で……ゲイバーもこんな店ばっかりじゃないので、出ましょうか」
「ッ……いえ、あの……。少しだけ、いたいです。あ、でも円谷さんがだめですか……?」
あくまで付き添いの円香がだめとは言えない。では少しだけいましょうか、と円香は春と1番隅のテーブル席に座りビールを2つ注文した。春は物珍しそうにきょろきょろ、とあたりを見回している。不意に円香のスマホが鳴り、円香は着信を受けたが店内のBGMがうるさくてよく聞こえないようだった。春が、外に出ても大丈夫ですよ、とジェスチャーすると円香はすぐ戻ります、と頭を下げて外に出る。春が1人で座っているといきなり、1人のオジサンが円香がいた席に座った。
「あの、そこ……すみません、人がいるので……」
そう言って春は断ったのだが、オジサンは少しだけ、とねばった。その男はスキンヘッドにピタピタのインナーを着ていていかにもそういう人、という印象だった。彼は言った。
「君可愛いねー。ここジャニ系の子あんまり来ないのに」
「はぁ……」
「もしかして初心者?」
彼は丁寧に、ゲイバーによって系統や客層が違うことを春に教えた。そしてオジサンは春に尋ねた。
「ここ、何系の店か知らないで来たの?」
「はい?」
オジサンが春を手招きして、耳打ちするジェスチャーをしたので春は少し彼に近づいた。するといきなり、彼は春の耳をべろりと舐めた。
「ッひ!!!!」
春が後ずさるとオジサンは笑った。
「ここはエッチ目的の多い店だから、大人になってからまたおいで」
そう言われた春は弾かれたように立ち上がり、転がるように店の外に出た。店の外で電話していた円香は、すごい勢いで飛び出してきた春にびっくりする。
「先生!?」
「も、もう、か、か、帰ります!!!」
春は顔面蒼白になっていた。円香は、どうしました、と聞いたが春はかたくなに何があったか言わなかった。春は男としてのプライドで、変な男に耳を舐められて逃げてきたとは円香に言えなかった。しかし春の様子にただならぬなにかがあったことを察した円香は春に謝る。
「申し訳ありません。席を外してしまい……それに私が選んだお店で嫌な思いをさせてしまって……先生にどうお詫びすればいいか」
落ち込む円香に春は、平気です、と強がって笑顔を作る。
「ゲイバーに行きたいと言ったのはぼくですし、円谷さんが出ようと言ってもいようと言ったのはぼくなので……それに、大したこと何もなかったですし」
「本当ですか……?」
「ちゃんと、漫画の参考にもなりました」
好きな相手以外に触れられる不快感は、春の想像以上だった。虫に這われたようにゾッとして、今もまだ手が震えている。平気なふりをして円香と話しながら春は数か月前の事をふいに思い出した。寝ぼけた孝太郎に唇にキスされた時のことだ。あの時は1ミリの不快感もなかった。それどころかすごくドキドキしていた。ああやっぱり好きなんだなぁ、と自身の思いをあらためて自覚させられる。頭より心が、身体が孝太郎に好意を抱いている。相手は男性だし全く釣り合わないとわかっているのに触れるたび、触れられるたびに幸せだった。
「先生?」
円香に不安そうに呼ばれて少しぼんやりしていた春は、大丈夫です、と笑顔を見せた。
「本当に大丈夫ですか? 男の人無理になってませんか?」
「なってませんよ。次の原稿も大丈夫です」
「今は原稿の心配してるんじゃありません!」
春は1人で帰れると言ったが円香は心配になり、春を送っていくことにした。円香と春が駅に向かって歩いていると、コンビニから桜色の髪の長身の男が出てきた。孝太郎だ。おつかいか、タバコを数箱買っている。孝太郎は夜の街に2人でいる春と円香に気づくと目を見開き驚いていたがすぐに笑顔を取り繕い、他人行儀な会釈して通り過ぎようとした。そんな孝太郎につかつかと円香が歩み寄り、腕を掴んで引き止めた。
「円谷さん!?」
驚く春を置き去りに円香は孝太郎に言った。
「すみません。先程鈴木先生と取材でゲイバーに行ったのですが私の不手際で先生に嫌な思いをさせてしまいました!」
「ッえ、ゲイバーですか!?」
驚く孝太郎に円香はさらに言った。
「申し訳ありません。だから少しだけ……優しくしてあげてくれませんか? 先生は私相手だと……強がってしまうので」
「ちょっと。何言ってるんですか、円谷さん」
戸惑いを見せる春に孝太郎は声をかけた。
「嫌な思いって何があったんですか!? 変な人いました!?」
「何って別に……何も」
「嘘や、何もない顔ちゃう!」
孝太郎は真面目な顔で、春を心配していた。そんな孝太郎を見て春の瞳にうっすらと涙が滲んだので孝太郎はたまらず声を荒らげた。
「何されたんや! どこの店や、こんな……」
円香は、すみません、とまた頭を下げる。春は円香に言った。
「円谷さんは悪くありません! 元々ゲイバーに行きたいって言ったのぼくですし……」
「そんなん、なんでおれに言わなかったんですか!! 行くならおれが付き添いますよ! 新宿の夜の店なんかおれの専門じゃないですか! 言って欲しかったです!!」
もう、と孝太郎は深いため息をついた。春は申し訳無さそうに言った。
「大丈夫ですから、もう仕事戻って下さい、すみません呼び止めて……」
「でも……」
さっきから孝太郎のスマホがずっと鳴っている。おそらく店から電話がかかってきているのだろう。孝太郎は言った。
「朝、そっち行ってもいいですか?」
春が頷くと孝太郎は、家にいてください、と言ってポケットを探る。
「これ、あげます」
そう言って春に何かを握らせ、急いで仕事に戻っていった。手を開くと、春の手の中には可愛らしいいちごミルクの飴があった。袋を破ってその飴を舐めると、春はさっきまで身体に残っていた不快感が少しずつ和らぎ、気持ちが落ち着いていくのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます