9 ホットケーキとオタクな編集者

 古びた喫茶店のホットケーキが春は好きだった。流行りのふわふわではなくしっかりとした厚さのホットケーキ。編集と打ち合わせするときは最寄り駅から1分ほどの距離にあるこの喫茶サントスでお願いすることにしていた。喫茶サントスの店内はこじんまりとしていて、中は植物の鉢植えがたくさんある。おじいさんが1人でやっていて、まばらにいるお客さんの年齢層も高い比較的落ち着いた店だった。今回連載用のネームを3話まで送ったら、打ち合わせしましょう、と編集に呼び出されたのだった。春を担当している編集の女性は円谷円香つぶらやまどかだ。眉の上まで前髪を短く切りそろえた、猫目のハツラツとした女性である。20代半ばと同世代の女性なので春は最初目を見て話すことができなかったし食事なんて喉を通らなかったが、円香がかなりのオタクである事を推しのぬいぐるみなどを見せながら切々とカミングアウトしたことによって春は少し心を開きパンケーキを向かいで食べられるほどになったのである。春が注文したパンケーキと、円香が注文した硬めのプリンが席に出された。春はバターを塗り、メイプルシロップをたっぷりとかけた。いただきます、と小さく礼をして手を付ける。分厚いホットケーキを切って一口頬張り春が堪能していると円香が、あの、と話を切り出した。


「……ネーム、神でした……」

「え?」

「良すぎて、実は連載会議の前に内々に上に相談しておりまして、おそらく大丈夫との返答でしたのでできたらもう1話を描き始めて頂きたくて……まだ正式に決まったわけではないので本来ならもう少し後にお願いするのが正しいんですけど……あの読み切りの熱が冷めないうちに少しでも早く連載を始めたくて」


 もし会議で正式に通らなければその原稿は無駄になってしまう。しかしいつもはそんなことを言わない円香がそこまで言ってくれるのなら、と春は、描きます、と了承した。円香は言った。


「あの……やっぱり鈴木先生にBLをお勧めしたのかなり、かなり正解だったと自負しておりまして、あの読み切りも物凄く評判良かったんですよ……しかしそれを上回るあの連載の……濃さ……まだ私しか読めてないのが申し訳なくて早く読者に届けてあげたい……鈴木先生の描く男の子がすごく魅力的で、欠点がしっかり描かれているのも親しみがあって応援したくなりますし何よりあんなにもじれったいピュアなお話が描けるのはもう才能というか本当によかったと……ありがとうございます……」


 そう言って拝み始めた円香に春は恐縮しつつ、どうも、と答えた。円香はさらに言った。


「というか読み切りも秀逸だったんですけど連載のネームからいきなり恋愛の初々しい心情が生々しくなったというか解像度がガッと上がってですね、絶好調と言わざるを得なく……鈴木先生が描く男の子キャラは元々魅力的だったんですけど、まさかあんな恋愛漫画の引き出しがあったなんて……手を繋ぐだけであんなにドキドキしたの私初めてです!」


 褒められると恥ずかしくなり春は、いやいや、と俯く。


「れ、恋愛経験豊富そうな友人にアドバイス頂きまして……」

「それは素晴らしいご友人ですね……そしてその友人にアドバイスを求めてアドバイスをしっかりと作品に反映させた先生の才覚にもう脱帽してまして……連載始まったら、映画化目指して一緒に頑張らせてください!!」

「え、そんな……」

「連載の反響次第ではあり得ると思いますよ。近頃ゲイを題材にした作品の映画化も少なくありませんし」

「が、がんばります」


 ふと何気なく円香が窓の外を見て、目を丸くした。何かな、と春が目をやると喫茶店のガラスの向こうにいたのは孝太郎だった。春と目が合うと孝太郎は気恥ずかしそうな顔をして2人に会釈してそそくさと通り過ぎる。春が去っていく孝太郎に手を振っていたので円香は尋ねた。


「……今の派手なイケメン、先生の知り合いですか?」

「あ……彼が、その……恋愛経験豊富そうな友人です……アドバイスくれた……」


 円香が、なるほどですね、と噛みしめるように言って黙り込む。


「あ、すみません。先生の友人があまりにもかっこよくて話そうとしてた事が頭から飛んでしまい……」

「はは……やっぱりかっこいいですよね、彼」

「あのご友人はもしかして、家がご近所ですか? 先生のご自宅この近くでしたよね」

「あ、はい……実はアパートのお隣さんで」


 なるほど、とつぶやいた円香が少し迷ったように、話を続けた。


「もし差し支え無ければ、1話を描く前にあのご友人と手を繋いでみて頂くことってできますか?」

「え!?」

「変なこと言ってすみません。ただ、先生男性と手を繋いだ事ありますか?」

「あ……無いです」

「もし私が男性ならば今繋げば済む話なんですけど、あいにく女なので……男性が自分より少し手の大きい男性と初めて手を繋いだ時の心象描写があればもっと、もっとよくなる気がしたんです。男性が自分より大きな手の人と手を繋ぐことってあまり無いじゃないですか」


 男性どころか女性とも手を繋いだことなどない春だったが、ですね、と相槌を打つ。


「あ、絶対ではないです! そもそも異性愛者の男の先生にBLの執筆というご無理お願いしているのは重々承知ですし、現状も最高ですから! ネームそのままでも大丈夫です」


 打ち合わせを終えて喫茶店を出ると孝太郎からラインが来ていた。


【すみません! 場所聞いてたから気になって覗いてしまいました。お仕事お疲れ様でした】

【いえ、今からお仕事でしたか?】

【はい、いってきます! また明日】


 今日はいつもより家を出る時間が早い。もしかして同伴出勤というやつだろうか、などと彼の行動を探るようなことを考えそうになり春はふるふると頭から振り払った。春が食事をするのはほぼ孝太郎とだけだが、孝太郎は仕事上いろんな人と食事しているはずだ。そのことは忘れないようにしなければいけないなぁ、と心に留める。


“先生のご友人があまりにもかっこよくて話そうとしてた事が頭から飛んでしまいました”


 円香の言葉が、春の頭に妙に残っていた。友人の孝太郎を褒められるのは嬉しいことのはずなのに、胸にチクッとした痛みを覚える。もしかして担当編集が彼を褒めた事に嫉妬心を抱いたのか? と考えてみたが別に円香に作品以外を褒められたいと思ったことなど無いし、ホストの孝太郎と女性ウケで張り合うなどおこがましいにも程があるとわきまえているのでそれは無い。それに孝太郎がかっこいいことなんて円香に言われずとも十分わかっている。どうしてかわからない胸の痛みに、春はただ首を傾げるのだった。





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