8 生姜焼きと挙動不審な漫画家
【急な仕事が入り、しばらくは一緒にごはんを食べるの難しそうです!】
孝太郎がラインで春からそう言われたのは月曜の朝のことだった。フリーランスの春が忙しいのはいいことだな、と思った孝太郎は、頑張ってください、と返す。しかしそれから2週間経っても春から音沙汰がなかった。気にかかり、孝太郎が様子伺いのラインを送ったらしばらくしてからこんなラインが返ってきた。
【少しご相談があるので、明日ごはんお邪魔してもいいですか?】
孝太郎はすぐに、オッケーです、と返し頭の中でメニューを考え始めた。翌日、帰宅した孝太郎は颯爽とキッチンに立つ。春と会っていないこの2週間はなんとなくやる気が出ず簡単なものしか作らなかったので張り切っていた。孝太郎はまず豚肉に塩コショウしてから片栗粉をまぶした。それをフライパンで焼き、後からすりおろした生姜と醤油、みりん、酒をかける。漬けない時短の生姜焼きだ。部屋中にいい匂いがした頃にガチャ、とドアが開いた。ひょこっと春が顔を出す。久しぶりだからか少しぎこちなく、おじゃまします、と断って家に入ってきた。キャベツの千切りの隣に肉を盛ると、春が運びに来た。
「ごはんも炊けてますからね」
そう声をかけると春はメインを運び終えてから茶碗を出し、白ごはんをよそう。シンプルに乾燥わかめを入れただけの味噌汁を入れて、熱々のお椀を2つ孝太郎は運んだ。ローテーブルにいつも通りに並べて久しぶりに向かい合って、いただきます、と手を合わせる。
「お仕事お疲れ様です」
孝太郎がそう声をかけると春は、目をそらしたままぺこりと会釈した。少し違和感を覚えつつ孝太郎は春が相談を切り出すのを待った。しかし食べ終わる頃になっても春は何も言わない。というかいつも食べながら何かと話す春がやたらと静かなのだ。
「もしかして生姜焼き、あんまり好きじゃなかったですか?」
春の好き嫌いを聞いたことがなかったなぁ、と思い立った孝太郎がそう尋ねると春は、いやいやいや、と首をふるふると横に振った。
「好きです! 今日もめちゃくちゃ美味しいです! ほんとに! すごく!」
そう言ったあとで何故か春はシュンとしていて孝太郎はますます謎が深まった。食後のお茶を飲むときに春が、あの、と切り出した。
「じ、実は……前の読み切りが好評で連載にしようかという提案を頂いてまして……」
「前の読み切りって、あのBLのですか?」
「そのBLの、です!3話までネーム切るように言われてるんですけどいまいち上手くできなくてその、孝太郎くんに何かアドバイス頂けたらなと……恥ずかしながらその、ぼく人と付き合ったことがないので……経験値の低さゆえになんだかリアリティに欠ける仕上がりになってしまって」
なるほど、と孝太郎は考える。読み切りで彼らはハグをして終わっていた。その続き、となると両想いになった後の話となる。
「春さんはどんな構想なんですか?」
「ッ……えっと……まぁ、たとえば、キス……とか……」
そう小さな声で言った春は耳の先まで真っ赤になっていた。ああ、そういう話が春さんは苦手なんだなぁ、と孝太郎は推測する。孝太郎は少し考えてから、まだしません、と答えた。
「え?」
キョトン、とする春に孝太郎は言った。
「あの2人はそんなすぐキスしません。だって最初は教室で挨拶するのすらためらってたくらいじゃないですか。付き合う前もかなりギクシャクしてたし両想いになってもあの2人ならしばらくは誰もいないところで手を繋ぐのがギリギリだと思います」
「な、なるほど……あ、メモします」
そう言って春はスマホにメモを取り出した。打ち込んだあと春は、ふぅ、と息をついて笑った。
「孝太郎くんに聞いてよかった。実はぼくも2人はそういうイメージだったんですけど普通はその、付き合ったらすぐにそういうことをするものなのかなって……迷ってしまって」
「そうだったんですね……それならなおさら、そういう春さんの感覚が正解だと思いますよ。あれは純粋な春さんだから描けた話だと思うので」
「純粋って……はは、恥ずかしいな。もういい年した男なのに」
自虐めいた言い方をする春に、そんなことないです、と孝太郎は力説した。
「純粋って素晴らしい事ですよ。それって不可逆的ですから。年齢を重ねても純粋なんてそれだけ汚れがない真っ直ぐな生き方をしてるってことじゃないですか。だからおれは今のままの春さんが……」
好き、とうっかり言いかけてしまい孝太郎は急ブレーキを踏んで、いいと思います、と誤魔化した。会うのがかなり久しぶりなので盛り上がってしまっている自覚がある孝太郎は、落ち着かなければ、と小さく深呼吸した。春は、えー、と声を上げて両手で顔を覆った。動かなくなった春に孝太郎は声をかけた。
「春さん?」
「どうしよう……コンプレックスをそんな風に褒めてもらえたら……孝太郎くんを指名するお客さんの気持ち、すごくわかりました……。なんだか申し訳ないですね。こんな風に君と話すなら普通はお店に行かないといけないのにぼくは毎度気安く家にお邪魔してしまって……」
何言ってるんですか、と孝太郎は目を丸くする。
「おれは自分の時間を24時間すべて売り物にしてるわけじゃないですよ。今はプライベートです」
「そうですか……」
春はローテーブルに肘をついて顔を覆ったまま、またじっと動かなくなった。
「春さん?」
孝太郎が声をかけると春は立ち上がった。
「ヒントありがとうございます! ネームしてきます!」
「おお! 頑張ってください。連載、始まるといいですね! すごい楽しみです。読み切り、本当に面白かったから」
「ありがとうございます……では……」
なんだか春は恥ずかしそうで、そんな春さんも魅力的だなぁと孝太郎はにこにこと見守る。玄関から出ていこうとした春に孝太郎が声をかけた。
「明日は忙しいですか? その連載のネームが落ち着くまでは、誘わないほうがいいですか?」
春は少し口ごもり、あの、と切り出した。
「……迷惑になってないですか?」
わけがわからず孝太郎が首を傾げると春は言った。
「毎日ぼくとご飯食べてて……あの、他の女性との時間とかは……」
「お客さんですか?」
「そうではなく、もっとプライベートな女性と過ごす時間とか……」
春が遠慮がちにそう言ったら孝太郎は、いませんよ、と否定した。
「そういう人はいません! 春さんが忙しかったここ半月……もちろん心からお仕事の応援してましたけど少しさみしかったから今日久しぶりに一緒に食べられて嬉しかったです! 相談とかもおれで乗れるものなら乗りたいし」
会いたくて、つい前のめりになる孝太郎に春は控えめな笑顔を見せた。
「……じゃあまた明日お邪魔してもいいですか?」
「ぜひぜひ!」
また明日、と約束してからドアが閉まり孝太郎はガッツポーズをした。ここ半月、本当に物足りなかったのだ。また明日会える、と浮かれる孝太郎とは対極的に春は沈んでいた。自分の家に戻ってから深いため息をつく。
「どうしよう自分が気持ち悪い……孝太郎くん気持ち悪くなかったかな……」
靴を脱いでよろよろと歩き、ベッドに倒れ込む。そして枕に顔を埋めて、あー、と声を上げた。
「気持ち悪い、気持ち悪い……どもってたし固まっちゃったし、いろいろ変なこと言っちゃったし……嫌だ……死ぬ……」
孝太郎は全く持って普段通りなのに、自分1人が寝ぼけて同性からされたキスを大事のように引きずって意識しているのが春は耐えられなかった。しかし普通にしようと焦れば焦るほど余計に挙動不審になってしまう悪循環になっていた。春は枕に顔を埋めて、忘れろ忘れろ、と繰り返した。
「ただの、事故、ノーカウント、接触……」
忘れたいのに頭が勝手にまた先日のキスを再生し始めて、ぎゃぁ、とのたうち回る。バタバタと転がってからガバッと春は起き上がった。
「ネームしなきゃ! これで仕事までできなかったらぼくはもう……ミジンコになってしまう……」
春は机に向かい、ネームに取り掛かる。しかしその原稿に出てくるメインカップルは孝太郎と自分がモデルなので、余計に孝太郎のことが頭から離れなくなる。羞恥心と戦いながら春は仕事に打ち込んだ。
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