10 おでんと隠れゲイ
牛すじ串に練り物、じゃがいも、大根、銀杏、ちくわ。ローテーブルの鍋敷きの上に置かれた土鍋の登場に春はキラキラと目を輝かせた。孝太郎は冷蔵庫からカラシを取ってきて言った。
「今更ですけど、おでんやるなら日曜の方がよかったですかね〜。その方が春さんゆっくりビール飲めましたよね」
「ッ……あ、でも、酔ったら寝ちゃうから……はは」
「春さん……なんだか顔赤くないですか? 暑いですか? まだ時期早かったかな」
そう言って窓を開けに行った孝太郎に春は、すみません、と謝った。春は内心、あの時のことを思い出させないでくれ、といっぱいいっぱいになっていた。あの時とは寝ぼけた孝太郎に……キスされた事だ。春は焦っていた。前回の円香との打ち合わせからすでに1週間経っている。その間春はずっと円香のアドバイス通り孝太郎に手を繋いでもらおうとしたが毎回どうしても言えず、ごちそうさま、と言って帰っていたのだった。1話はもう2人が手を繋ぐシーン以外はできていてそこだけが抜けている状態だった。円香のアドバイスを聞いてよりいいものになるならばやりたいと思うのに、言えなかった。手を繋ぐくらいサッと頼めば断られるわけがないのに、言おうとすると心臓がドキドキして喉が詰まって声が震えそうになり言えなくなる。こんなにコミュ障が酷かったかなぁ、と春は思ったが他人と合意の上で取るスキンシップなんておそらく母親以来なので、もうどうすればいいかわからなくなっていた。いただきます、と手を合わせて春はまずは大根を取った。カラシを塗って、パクっと食べる。ツン、と鼻に抜ける辛さと味の染みた大根が合って美味しい。
「幸せ……」
春がそう言うと孝太郎は、よかった、と笑った。
「昨日仕事行く前に仕込んでたんですよ〜帰る頃に味がしみしみになってるように」
「手間かかってる……!」
「入れただけなので全然手間かかってないですよ〜」
春は、美味しい美味しい、と次々に具に箸を伸ばす手が止められない。そういえば、と孝太郎が切り出した。
「どうですか。1話、できました?」
急かさないよう気を使ってくれていたのか、孝太郎からその話をふられたのは初めてだった。喉をつまらせそうになりつつも春は今しかない、と覚悟を決める。
「ッ……ほ、ほとんど描けてるんですけどまだ描けてないシーンが1つだけあって……!」
「どんなシーンですか?」
「て、手を繋ぐシーン、なん、ですけど」
孝太郎が、ああ、と声を上げた。
「それ、かなり大切なシーンですね」
「そうなんです、で、編集の方曰くその、ぼくが、お、男の、人に、て、て、手を繋いでもらってみては、と……」
どもりすぎて死にたい、と春は自己嫌悪に陥っていた。もっとサラッとスマートに言いたかったのに変な感じになってしまった。誤解させないように春は付け加えた。
「すみません! あの、ぼく誓ってゲイじゃないです! でもただ……手を……その……繋いでみて欲しくて」
そう言って春があたふたと手をパタつかせていたら、孝太郎が春に手を伸ばした。春は、ぎゃ、と逃げてしまい、すみません、と謝った。
「今、ちょっと汗が……ごめんなさい、洗ってきます!」
春は洗面所に走り、手を石鹸でよく洗った。タオルでしっかりと水気を拭いてから孝太郎の元に戻る。孝太郎が振り返り、言った。
「手、繋ぎますか?」
そう孝太郎から誘われると春はドッとまた汗が吹き出る。
「ッ……ごめんなさい、やっぱりいいです……変なこと頼んでごめんなさい……」
「え! どうしてですか? 大切なシーンの参考にするんですよね」
部外者の孝太郎はちゃんと仕事としてしてくれようとしているのに、自分は変な風にばっかりなってしまっていることに春は自己嫌悪した。焦った春は取り繕うように言った。
「なんか、ごめんなさい! 今ゲイみたいになってて気持ち悪いですよねぼく!」
シン、とした後で、は、と小さくため息が聞こえた。そろそろと春が視線を上げると孝太郎はひどく真面目な顔をして言った。
「春さん、それは自分の作品に失礼な言葉じゃないですか」
「ッあ……」
“ゲイみたいになってて気持ち悪い”
それは春にとっては自虐のつもりだったが意図せず差別的な物言いになってしまっていた。少なくともBLを描いている人間が言っていい言葉ではない。何てことを言ったんだ、と春は口元を抑えて後悔した。
「……片付け、もうおれがやっておくので大丈夫ですよ」
孝太郎の言葉はなんだか心のシャッターを下ろされたかのように、距離を感じる。失望された、と春は感じた。取材に協力してくれようとしていたのに1人でおたおたして、あげく自分の作品を否定するような差別的な発言をした。これでは応援してくれていた孝太郎に呆れられても仕方がない。春は、バチン、と自分の頬を叩いた。驚いた孝太郎に春は言った。
「……ごめんなさい。言い訳に聞こえるかもしれませんが、ぼくはゲイが気持ち悪いなんて思ってません。ただ孝太郎くんに気持ち悪いと思われるのが怖くて、先んじて自衛に走ってしまいました」
「おれも……気持ち悪いなんて思いませんよ。絶対に」
よろしくお願いします、と春は手を差し出す。孝太郎はそのまま繋ごうとしたが、あ、と声を上げる。
「このまま繋いだら握手になっちゃいますね、移動します」
孝太郎が距離を詰めて、春の横に座る。そして春が差し出した手を握った。春は、わ、と声を上げた。
「思ったより孝太郎くんの手、大きい……」
これは円香の言う通り繋いでみてよかったな、と春は思った。印象も繋いだときの感情もずいぶん違う。
「メモしてもいいですか」
そう断り、空いていた右手で手を繋いだ感覚をスマホのメモに残す。春は、ふ、と笑った。
「なんだか繋ぐ前はあんなに緊張したのが嘘みたいに、安心してきました」
「緊張してたんですか?」
「正直……かなり。こんなに緊張したのは大学の時に複数の女子からノートを集める時以来かもしれないです」
孝太郎が、はは、と笑う。孝太郎が笑うと少し手に力が入って、それも春はメモした。
「駄目だな、本当。実はぼく1週間前から手を繋いでいいですかって言いそびれてて」
「1週間!」
「編集さんに言われてたんです。実際に繋いでみた方がいいって。その通りでした」
「はは。お役に立ててよかった」
ホストで働いててよかった、と孝太郎は内心思っていた。今顔は笑顔を作れているしちゃんと話もできているけれど、内心はすごく辛い。春と手を繋いだというのに全然嬉しくなかった。それは先程の春の“ゲイみたいになってて気持ち悪い”という発言が原因だった。やっぱり春もゲイは気持ち悪く思うのかな、と不安になる気持ちと、いやいやもしゲイを嫌悪しているのならあんなに素晴らしい作品は描けないはずだ、と春を信じたい気持ちで揺れ動く。しかし自分の関係のないところにゲイカップルがいるのと、今隣にいる男が自分に好意をよせているゲイだとわかるのは全くの別物だろう。孝太郎をゲイだと知らず手を繋いでる春には申し訳なく思うが、今さらになって知られるのはもう怖い。両想いになろうなどとおこがましい事は決して望まないかわりに、この性指向と春への感情を隠し通す事は許されたい。そんなことを思いながら孝太郎は手をさりげなく離した。
「参考になりましたか?」
春は、かなり、と答えてくれたので孝太郎は安堵した。春の漫画の助けになると、ゲイを隠している事の罪悪感がわずかに和らぐ気がしていた。
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