5 トマトパスタと1番の読者
水をたっぷりに入れた鍋に火をかける。その間にフライパンでオリーブオイルでにんにくを炒めてからみじん切りにした玉ねぎとトマト缶を入れ、塩でさっと味付け。お湯が湧いたら鍋に塩とパスタを入れて、孝太郎は隣人にワンコールをした。すぐに外でパタパタと足音がしてドアが開く。こんにちは、と顔をのぞかせた春はふにゃっとした笑顔を見せる。
「にんにくのいい匂い〜」
「今日はパスタにしました」
そう言った茹で上がった麺をフライパンのソースにさっと絡めてお皿に盛る。そして窓辺に置いてあった鉢植えから大胆に葉を何枚もちぎって軽く水洗いしてからパスタの上に乗せた。それを見た春が目を丸くする。
「それ観葉植物かと思ってました!!」
「バジルですよ〜どんどん生えるから都度買うより育てちゃった方が楽なので」
はぁ〜、と春が感嘆の声を上げる。
「完全にお店のパスタみたい……ソースもレトルトじゃないし……」
「はは。あれも時短でいいですけどね」
「バジルめちゃくちゃいい匂いする……」
「摘みたての香りすごくいいですよね〜」
孝太郎のキッチンの窓辺にはバジルとイタリアンパセリ、それと豆苗が育てられていた。テーブルに向かい合って、いただきます、と手を合わせる。お箸でパスタを口に運んだ春は、ん〜! と声を上げた。
「今日も最高に美味しいです! 美味しいし香りもいいし美味しいし!」
「よかった」
気恥ずかしそうに、春が言った。
「実はだいぶ昔にね、パスタを自炊してた時期があったんですよ」
「春さんが!?」
「もちろんソースはレトルトですが……。でも日に日に茹でるのすら面倒になっちゃってそのままやらなくなりました。そんなだからぼく本当に孝太郎くんのこと大っ尊敬してるんです……生きる力が高い……ぼく植物も育てられませんし」
「春さんは漫画で忙しいじゃないですか。おれは家にいるときにやることないだけですよ」
「……たとえめちゃくちゃやることなくても何もしない人はしないんですよ……!」
綺麗にパスタをたいらげて片付けも済ませた後、いつもなら帰るタイミングで春はまだ帰らなかった。孝太郎がどうしたのかなぁ、と考えていたら春が意を決したように切り出した。
「あの……前に言ってた読み切り、会議通って掲載されることになって……」
「前に言ってた読み切りってあのBLのですか!?」
「あのBLの、です!」
「それはよかったですね〜!」
春が寝る間も惜しんで原稿作業に取り組んでいたのを知っていた孝太郎は素直に祝福した。春が、ありがとうございます、と頭を下げる。
「読み切り載せてもらえたのは孝太郎くんのおかげです。BL後押ししてもらえたし、その上モデルまで……」
そう言って春が照れ笑いをしたので孝太郎もなんだか恥ずかしくなり笑った。
「あの……献本、もらったんですけど……よかったら差し上げてもいいですか? あ、でも内容が内容なので、断って頂いても大丈夫です」
そう春に言われた孝太郎は、ください、と声を上げた。春は、少し待ってて下さい、といったん家に戻ってから再び戻ってきた。
「これです。それでは……あの……帰ります」
恥ずかしいのか春は雑誌を渡したらすぐに帰ってしまった。表紙に小さく鈴木春と名前を見つけ、おお、と声を上げる。なんとなくクッションに正座をして春の読み切りのページを見つけた。男子校の話だった。孝太郎とおぼしきキャラクターは、ハイスペックなクラスの人気者だった。そいつは見てて恥ずかしくなるくらい爽やかないい奴で、地味で卑屈な主人公をクラスの中心へと引っ張っていくのだった。もしかして春さんから見たらおれはこんなキラキラした人間に見えているのか? と少し気恥ずかしくなる。距離を縮めていく過程で2人は1度は喧嘩をしてすれ違ったが最後は想いが通じてハグを交わす。そこでストーリーは終わっていた。パラパラとページを遡りまた最初から読み直す。ベッドに上がって寝そべり、孝太郎はそのまま気がつけば6回も読み直していた。
「すごい……」
高校生の時にノンケの同級生に恋をして失恋した経験のある孝太郎にとって、同性同士が結ばれて終わるこのハッピーエンドの漫画はまさに“憧れ”だった。あぁ、こんな学生時代を送ってみたかった、と考えさせられる。もしこの漫画みたいに春さんと同級生だったなら、とまで妄想したものの、彼が3つも年上だったことを思い出す。この漫画はありえない夢だ。現実ではノンケが男を好きになる確率は限りなくゼロに近いだろうし、ゲイがたまたま日常生活で出会った素敵な男性と付き合える可能性は恐ろしく低い。でもこんな恋が現実に起きたらいいなぁ、なんて希望を抱かせてくれる漫画だった。気づけば孝太郎は泣いていた。ひっそりと手のひらで涙を拭う。自分がモデルになったからかこのストーリーが琴線に触れたのか孝太郎は泣けて仕方なかった。さらに3回読み返してから、孝太郎は宝物のようにその雑誌を抱きしめたまま眠りについた。
――…カチャン、と静かにドアが開く。家の中に抜き足差し足入ってきたのは……春だった。献本を渡して帰る時にテンパっていたせいで孝太郎の家にスマートフォンを忘れてしまっていた。この時間は彼はもう寝ているはずだから不用意な通知音などで起こさないよう、ささっと回収するべく黙って入ってしまった。ローテーブルの下に放置された自身のスマートフォンを見つけてそっと取る。ベッドで寝ている孝太郎を起こさずに済んだ事に安堵した春だったが、眠る孝太郎を見て驚いた。たまたまかもしれないが、自分が渡した雑誌を抱きしめて眠っていたからだ。もしかして寝る前に読んでくれたのかなぁ、などと考えると嬉しくなる。しかしよくよく見ると孝太郎の目元が不自然に濡れていて、泣いていたのがわかった。いつも明るい隣人の涙に春は焦った。何か嫌なことでもあったのだろうか、と不安になる。春は起こさないようにそっと遮光カーテンを閉めてから出ていった。
翌日、それとなく春は昨日何か嫌なことがなかったかと尋ねたが、特に何もない、と不思議そうな顔をされてしまった。孝太郎は、それより、と笑顔を見せる。
「読み切り読みました!す……っごくよくて寝る前に何回も繰り返し読んじゃいました」
「面と向かって言われると……恥ずかしいですが嬉しいです」
はた、と春は思い至った。もしかして考太郎は自分の作品を読んで泣いてくれたんじゃないか、と。春はおそるおそる、尋ねた。
「そんな……よかったですか?」
「よかったなんてものじゃなくて感動しました! 正直言うと、ちょっと泣いちゃぃました」
そう言われて春は高揚した。自分の作品が孝太郎の心を泣くほど揺さぶったのならばこんなに嬉しいことはない。嬉しくて嬉しくて、胸が熱くなる。売れるためじゃなくて、誰かの心を揺さぶりたくて漫画を描き始めたのだったな、と自分が漫画家を目指したきっかけを春は思い出させられた。
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