和氣ふみか

01

 私は今、みちかが昔、着せ替え人形の靴をなくしたことを思い出している。

 みちかは私の妹で、三歳下だ。昔からしょっちゅうものをなくす。小さい頃は、それでよく母に叱られていた。父も渋い顔はしてみるけれど何だかんだ新しいものを買い与えてしまい、今度は父が母に叱られる。

 その人形の靴をなくしたとき、みちかは五歳だった。もう前みたいに買ってもらえないから絶対なくしちゃダメだって何度も言ったのに、それでもなくした。あのときはがっかりするやら「やっぱり」と思うやらで、結局新しい靴は買ってもらえなくて、人形はいつまでも片っぽだけ裸足のままで、そのうちその片っぽもなくして完璧に裸足になった。

 そのときのことを思い出している。

 両親を事故で一度に亡くして、父方の祖父の家に引き取られた。みちかが人形の靴をなくしたのは、それからまもなくのことだった。

 人生って、すごい勢いでひっくり返るものらしいなと、八歳の私は思った。


 お尻の下で、パイプ椅子がギュッと音をたてた。


「――あんた、ふみかちゃんだっけ? 話聞いてる?」

 私の目の前に座っている塔矢とうやさんが、あきれたような顔で言った。

 そこは古い雑居ビルの一室だった。昼間だというのに窓はブラインドが閉まっている。パーテーションの奥の席には女性が座っているけれど、観葉植物のように静かで、私が入ってきても声どころか物音ひとつたてない。

 塔矢さんは顔がめちゃくちゃいい。でも冷たい感じのひとだ。ほぼ初対面の私のことを、虫でも見るような目で眺めている。

「聞いてました」

 少なくとも頭の半分くらいでは意識していた。半分で塔矢さんが話す、実話怪談風家ものホラーみたいなやつを聞きながら、もう半分ではみちかがなくした人形の靴のことを考えていた。

「まぁ、どっちでもいいよ」

 塔矢さんはそう言い、そうだなと私も頭の中でつぶやく。曰く因縁はどうでもいい。聞いても聞かなくても。今大事なのはそこに住んだら家賃がかからなくって、それどころかお金がもらえるらしいということ。それから――私のやらかしを帳消しにしてくれるらしいということ。

「いつから住める?」

「いつでも住めます。明日からでも」

 ちょっと言いすぎかな、と思った。みちかがどれだけ荷造りの戦力になるものか、正直怪しい。はりきって手伝ってくれることは確実だけど、なにしろあの子は子供の頃から抜けている。

 ただ、荷物は少ない。祖父が亡くなった後はあちこち住まいを転々とするはめになったから、持ち物は自然と少なくなった。

 またなくした人形の靴を思い出す。祖父の家のどこかにはあったはずなのに、結局見つけられなかった靴。半透明でピンク色の、今もこの世のどこかにあるような気がして仕方がない小さな靴。

 私たちにあれこれ買い与えるのが好きだった父のことを思い出す。父は優しくて母はちょっとこわい。でも悪夢を見て真夜中に飛び起きたとき、私たちがとっさに泣きつくのは母だった。母の長い黒髪からいい匂いがしたことを思い出す。小さな頃住んでいた家を思い出す。あの頃の幼い私に教えてやりたい。人生ってすごい勢いでひっくり返るし、簡単におかしな方に転がっていったりもするんだよって。


「じゃあ鍵やるわ。一週間以内に引っ越しな」

 塔矢さんはそう言うと笑った。見えない指で唇を左右に引っ張って作ったような笑顔だった。そして私の掌に、大きなキーホルダーのついたカードキーケースを載せた。

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