2-5 巡り合い(ここも好き!)
すでに入り口は人であふれかえっていた。人の輪は三重にも四重にも重なり、娘たちは少しでも前に出ようと躍起になっている。普段ならば娘の淑やかとは言いがたい行動を厳しく非難する母親やお目付役も今回ばかりは黙認だ。それどころかもっと前に出てほしくてやきもきしている。
アメリアは喧騒に誘われるように入り口に足を運んだが、人の壁は分厚く、とてもではないが渦中の人物を拝めそうにはない。どうにか背伸びをしてみてもアメリアの低い身長ではせいぜい人の頭が見える程度だ。しかしどうやら同心円状に立っているエマ・アボットは高い身長のおかげでその人を視界に収めたらしく、棒立ちのまま目を見開いて固まっていた。
より中央に近い乙女たちは渦中の人物を一目見るなり、示し合わせたみたいに顔を赤く染め、口々にその紳士を称賛している。徐々に高まっていく異様な熱気はサルーン全体を覆い尽くしてアメリアは頭がクラクラした。娘たちの黄色い声は段々と大きくなり、まるで自分の心臓を丸ごと揺さぶられているかのようだ。娘たちは魔法にでもかかったみたいに、皆が皆、自分の世界に入り込んでいた。それこそ鋭いヒールで足を踏み抜かれても気がつかないくらいには。
「それほど素敵な人だっていうの? まさか、ありえないと思うけど――」熱気に飲み込まれると視界が揺らぎ、心臓が大きく脈打って、指先が冷たく痺れていく。
狂気的な賑わいはアメリアに途方もない好奇心を授けるには十分すぎた。
「いいわ。そこまでいうのなら――」アメリアは意を決して小さく息を吐くと、ドレスを軽くつまんで無限にも思えるような人の海に飛び込んだ。小柄を活かして人と人の間を強引にぬって、色とりどりのドレスをかき分け、ただひたすら奥へ奥へと進んでいく。
人の波は力強く、押し流されると自分がどちらを目指していたのかもわからなくなる。人混みの中はすごい熱気で、誰もが声を張り上げながら紳士の容姿だとか振る舞いだとかについて褒め称えているものだから耳がズキズキと痛くなった。その上、誰かのコロンが他の女のコロンと混ざりあい、異臭となって鼻腔を突き刺した。何度も足を踏まれそうになり、ドレスのレースが他の娘のドレスの飾りに引っかかり、気をつけなければとんでもない醜態を晒す羽目になりそうだ。
「これ以上人に揉まれていたら頭がおかしくなりそう」と、思ったときアメリアはついに最前列の光をその視界に捉えた。アメリアは安堵に気を抜いて――思い返せばそれが良くなかった! たった一人の紳士を取り囲むこの集団は、誰かが体勢を崩せば雪崩みたいに連鎖的に衝撃が伝わるようにできていた。アメリアが気を抜いたその瞬間、誰かが体勢を崩したようで背後から甲高い悲鳴が上がり、その衝撃はまたたく間に最前列へと伝搬され、あろうことかアメリアに降り注いだ。力を抜いた体は思ったよりも簡単に押し出され、挙げ句その衝撃で誰かの足につまずき、体勢を崩してアメリアは悲鳴と共に倒れ込んだ。反射的に目をつむり、痛みも覚悟したけれど、いつまで経っても予感した痛みは襲ってこない。その代わりにアメリアは気がつけば渦中の男に抱きとめられていた。
「大丈夫ですか?」
頭上から育ちの良さそうな、上流のアクセントで問いかけられる。
そんなわけで図らずとも、アメリアはこの賑わいの中心人物を至近距離で拝むことに成功した。人混みの中はあれほどうるさかったのに、今は何の音も聞こえない。今だって先ほどと変わらず、むしろスキャンダルを前にして今まで以上に観衆は声をあげていたが、アメリアの耳にはこれっぽっちも届いていなかった。それほどまでにアメリアは渦中の人物に釘付けにされていた。
とくにその黒い瞳は力強くきらめいて、見つめられるだけで全身の血液が沸騰するような気がした。それに体を支える腕は屈強でたくましく、身につけている紺色のコートは見るからに上質で、それをラフに着こなすのがより一層この紳士を素敵に見せているような気がした。年齢は二十後半といったところで、身長が高く、顔立ちは言うまでもなく全てのパーツが完璧に配置されている。
なるほど、確かに淑女たちが示し合わせたみたいに顔を真っ赤にするのもうなずける。目の前にいる紳士はたしかに色男だ。それこそ、今まで見たことないくらいには。
アメリアがまじまじと観察していることに気がつくと男は楽しそうに目を細めて笑った。その微笑みはあまり感じがいいものではなかった。どちらかといえば人を小馬鹿にするような笑みで、その笑みにさらされたアメリアはムッとして目線をそらした。しかしどうやら、その反応もどうやら紳士にとってはただの楽しい出来事の一つにしか過ぎないらしい。
「お怪我はありませんか? その綺麗なドレスも無事だといいんですが」
「ええ、大丈夫です」
「それはよかった」男は少し考えるような素振りをみせて、それからアメリアにそっと耳打ちした。「随分とおてんばなんですね」その言葉を聞いたその瞬間全身の血がカッと燃え上がった。羞恥心と怒りがないまぜになって唇がわなわなと震え、アメリアは顔を赤くして目をむいた。その間にも男は目を細め、楽しそうな笑みを隠そうともしない。
「信じられない! 人の、それも淑女の失敗を蒸し返すなんて! あれが事故だったことはこの人もわかっているはずなのに! それにわたしにだけ聞こえるようにいうなんてずるいわ。もっと公にしてくれれば、反論だってできるのに!」アメリアの怒りはどこにも発散できず、ただ紳士を睨むことでどうにか平静を保っていた。けれどどうやら紳士の方はまるで気にしている様子はない。それどころか男はアメリアのことなんてまるで眼中にないとでも言いたげに、隣で目を吊り上げながら一部始終を観察していたアンナに何かを耳打ちしていた。アンナはそれを聞いて、いつもの人を見下した笑みを浮かべた。薄い唇に長い指を当てて、意地悪を煮詰めたような顔つきで目を細めている。
頭の中は怒りと羞恥でいっぱいだったけれど、アンナの鼻につく態度が自分はこの得体の知れない紳士を誘惑しにきたのだと思い出させた。たしかにアクシデントはあったにせよ、これほど近くで話せるのは間違いなく幸運だろう
「そうよ。なんだか初めて受ける扱いで少し動揺したけれど……少なくともわたしはこの人を取り囲むだけ取り囲んで認識もされていないような凡庸な女たちとは違うわ」アメリアは一旦先ほどの紳士らしからぬ態度と行動は水に流すことに決めて、とびっきりの笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、助かりました」
並大抵の男であればそれだけですぐに熱っぽい表情を浮かべるというのに、その紳士は軽く笑っただけだった。
「足を痛めているかもしれないから後で医者に診てもらったほうがいい」
このそっけないともいえる態度に驚いたのはアメリアの方だった。今までわたしの笑みで振り向かなかった人はいないっていうのに! 改めてまじまじと男の様子をうかがってみても黒い瞳が細められているだけでそこに熱っぽさのようなものはこれっぽっちも感じない。それどころかこちらの腹黒い考えも何もかもまるっきりお見通しであるかのような雰囲気を感じる。
アンナは自分の婚約者がアメリアの攻撃に全くなびかないことに気を良くして、上機嫌で紳士に腕を絡ませた。
「アメリア、紹介するわ。わたしの婚約者のディラン・エドワーズさまよ」
アンナの嫌味っぽい言葉も今のアメリアには届かなかった。アメリアは自分の得意の攻撃が不発に終わった事実に唖然としてただひたすら困惑していた。男はそんなアメリアを観察して小さく肩を揺らして笑った。
「どうも、ディラン・エドワーズです」軽く名乗るとディランはアメリアの手をとり、その手の甲に唇を近づけた――が、アンナに腕を引かれたので口づけは取りやめになった。その代わりとばかりにアメリアの人差し指の側面を親指でそっと撫でてその手を離した。
「行きましょう」
二人がサルーンの中へ進むと人混みはモーゼの海割りのように真ん中から裂けていく。ディラン・エドワーズが自分の側に近づくと淑女たちは顔をさらに赤くして、もし何か奇跡が起こって目があったのなら、そのまま気絶してしまうのではないかというほどの異様な興奮と熱気があった。そんな中でアンナは一度だけ背後を振り返って呆然とするアメリアのことをみた。その顔は明白に勝ち誇っていて、高く上がった顎は立場の違いを示しているようにも見えた。
わかりやすい挑発にアメリアのはらわたは煮えたぎり、どうしようもない苛立ちをぶつけるように両手を痛いほど握りしめた。男の方は振り返るそぶりも見せない。悠々と立ち去る後ろ姿を眺めると先ほどの生まれて初めての敗北が脳裏に鮮明に思い出されて悔しくなり、アメリアは唇を血が出るほど強く噛みしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます