2-2 はじまり
馬車が止まるなりアメリアは弾かれたように馬車から飛び出して、恍惚とした面持ちで〈ノーザングリット〉を見上げた。三月の冷たい風がアメリアの愛らしい巻き毛を揺らし、それから少し遅れて甘い花の匂いが鼻孔をくすぐる。白亜の外壁は柔らかな月明かりに照らされて普段の厳しさをいくらか和らげていた。相変わらず荘厳とした屋敷には煌々と明かりが灯されて眩いばかり。遠くからは微かにオーケストラの演奏が聞こえ、それに混じってポーチにいても招待客の活気溢れる談笑の声が響いている。
「これほど舞踏会を待ち望んだのなんてデビュタントのとき以来よ。でもわたしついに戻ってきたのね。わたしのいるべき場所に!」今夜のことを思うだけでアメリアの心はうっとりとときめき、心臓が早鐘を打つのがわかった。体の奥底からじんわりと温かいものがあふれ、手足に途方もない力がみなぎるみたいだ。頬は自然と紅潮し、口元には愛らしい笑みが浮かぶ。小さな足は今にでも踊りたいと叫び、かすかに聞こえる音楽に合わせて自然と体が揺れ動いた。
アメリアは無意識の内に音楽の美しい旋律に耳を澄まし、恍惚として目を閉じた。しかし音楽の柔らかな響きは背後の騒ぎにかき消され、それ以上耳に届くことはなかった。
アメリアは寝入りを邪魔された猫みたいに不機嫌になって、一転して冷ややかなまなざしで背後の馬車をみやった。馬車の中ではいまだにジョージアナとソフィーが激しくやりあっていて、馬車に繋がれた二頭の牝馬も背後のやりとりにうんざりらしく頭をぐったりとさせている。面白いことに御者台に座るジョンも馬の仲間入りをしたみたいで同じように頭を垂れていた。
「いいから早くそれを渡しなさい! まったくとんでもないお嬢さんですこと! こんな野蛮なものを持ち込もうだなんて冗談じゃありません! 他のお嬢さまになんと言われるか!」
「うるさいわね、あんまり耳元で叫ばないでよ。なんだか気分が悪くなってきた」
「またそんなことをおっしゃって! もうだまされませんよ。そんなに都合よく気分が悪くなるものですか」
「それがなるのよ。ご覧なさいよ、ソフィー! ここにちゃんと明記されているじゃない! 読めないっていうのなら読み上げてあげましょうか? いい? 著者のアルフレッド・ウィリアムさんはこうおっしゃっているわ。第七章八節、魂の及ぼす肉体への影響について。我が国の偉大なる――」
「おやめなさい! 気分が悪くなったんだとすればそんな物を読むからですよ! さぁ、それをこっちに渡しなさい。ああ、本当にけがらわしい。よくも同じ人間の中身を調べようなんて気になったものです! 家に帰ったらそういった教育に害でしかないものは旦那さまに言って処分してもらいますからね!」
「いやよ。それにわたしこの程度で気分が悪くなったりしないわ! 血や臓器がなんだっていうのよ」
アメリアは呆れて小さくため息をついた。
ジョージアナったらなんでそういうゾッとする話題ばかり持ち出すんだか。この場に似つかわしくもない。こういう豪奢な建物を前にしてそういう言葉を耳にするとなんだか急にこの場で殺人事件か何かが起こりそうな気がしてくる。白亜の邸宅を血で染め上げる必要なんてどこにあるっていうの? アメリアは二人のやりとりを見つめながら、かつてジョージアナが語った連続殺人事件の詳細を思い出して身震いした。
「まあまあ、ジョージアナお嬢さま。諦めなされ、書庫が丸ごと燃やされるよりゃよっぽどマシだろう」わなわなと震えるばかりのソフィーを見かねてジョンが口を挟んだ。それにしたってこの人、ジョージアナには諭すようなこと言えるくせに、頑なにわたしとは目を合わせないわね。
ジョージアナは獰猛な獣よりも気がたっていて誰であろうと噛みつかずにはいられなかった。
「だってそんなことできないんだから怯える必要ないじゃない。お父さまが代々受け継いだものなのよ? そんな大切なものを燃やすわけないわ! アメリアならだまされるかもしれないけどね」突然引き合いに出されてアメリアはむっとして、その瞳にはほんのりと怒りの炎が揺らいだ。
「でも、わたしが火をつけないとも限らないわ。いいからさっさと降りてよ」
ジョージアナは唖然として、しばらくの沈黙ののちおずおずと馬車を降りた。アメリアの機嫌を探る顔は死神でもみたかのように真っ青で、赤みの足りない唇は小刻みに震えている。ジョージアナの脳内では頭に血がのぼった姉が書庫に火を放つ映像が繰り返し流れていた。アメリアであればやりかねない。それに、もしそんなことになったら失意のあまり死んでしまうかもしれない……。これから始まる退屈でうんざりする催しを思うと両足は鉄でできているかのように重かったが、それでもこれ以上姉の気分を害する訳にはいかず、ジョージアナは半分足を引きずりながら姉の後ろに続いた。けれどアメリアとジョージアナの距離は開くばかりだ。
ソフィーはしてやったりという表情でジョージアナをみてから、揉み手して、商人みたいに卑しい笑みを浮かべた。
「アメリアさま、それからあのおぞましい本もどうにかしていただけませんかね?」
「それはどうでもいいわ。たしかにゾッとするのはその通りだけど、わたしの邪魔になるわけでもないし。あっ、でも今日のわたしの振る舞いをお母さまに秘密にしてくれるっていうならどうかしてあげてもいいわよ」
ソフィーはしばらく考えて、奥さまに秘密をつくるくらいならこの
はやる気持ちはいよいよ抑えが効かなくなり、アメリアは牛歩の二人のことなんてほとんど置いてけぼりにして廊下を進んだ。サルーンに近づくにつれて音楽と談笑の声はますます大きくなり、心は高揚してどこかへ飛んでいってしまいそうだ。上質なペルシャ絨毯を踏みしめる両足は今にでも駆け出したいと叫び、もはや制御不能だった。廊下の壁には立派な絵画が飾られていたが、そんなものアメリアの視界にすら入らない。アメリアが唯一足を止めたのは大階段の正面に飾られた一家の肖像画を視界に収めたときだった。肖像画の中ではアンナ・ベネットが眉を吊り上げながら不敵な微笑みを浮かべている。「きっと今日も戦うことになるでしょうね。そっちがそのつもりならわたしは逃げも隠れもしないわ」アメリアは心を闘志で満たすと勝利の予感にわずかに微笑み、そのままサルーンの入り口へと向かった。
観音開きの大きな扉の前にはベネット夫妻が立っていた。さながらその様子は威圧的な門番のようだ。
ミスター・ベネットは厳しい顔つきと、そのがっしりとした体格のおかげで実際の身長よりもかなりに巨大に感じた。黒い髪にはすでに白いものが入り混じっていたが、それすらも堂々とした態度によってどこか洒落てみえる。それ以外に年齢を感じさせるようなものは何もなく、いまだに衰えない筋肉がベスト越しでもはっきりとわかった。その隣ではベネット夫人が物腰穏やかな雰囲気を漂わせている。身長こそ高いがミスター・ベネットのような威圧感はまるで感じられず、それどころかその立ち振る舞いは敬虔なキリスト教徒特有の感じを醸し出している。その独特の雰囲気の効果で、彼女が身につけるドレスはどれもこれも修道服のように見えた。――ただし、細部をじっくりと見ていけば、何気なく身に着けているドレスがどれほど贅を凝らしたものなのかは一目瞭然だ。
ベネット夫人はブロンドの髪と薄いブルーの瞳の持ち主で、全体的に線が細く、手袋をはめた腕なんて少し握っただけで折れてしまいそうなほど。しかし病弱な感じがまるでしないのはベネット夫人の気高さの
ベネット家の一人娘であるアンナ・ベネットを毛嫌いするアメリアだったが、この夫妻のことは文句なしに気に入っていた。厳しい顔つきのわりに案外ユーモアに富むミスター・ベネットも、誰にでも分け隔てなく接する心優しいベネット夫人も、どちらも心地よい雰囲気があったからだ。ただ今日に限っては二人とも何やら様子がおかしかった。
ミスター・ベネットはアメリアの姿を視界に捉えるなりその厳しい感じのする眉をピクリと動かして、ベネット夫人ははたから見てもわかるほどに体を硬くさせた。
「随分と久しぶりな気がしますな。このような日にお会いできて嬉しい限りです」そういうわりには嬉しそうではない。厳しい眉は少しも緩むことなく、いつもみたいに慇懃なキスを受け取ることもなかった。アメリアは宙ぶらりんになった手を見つめて小首を傾げ、今度はベネット夫人のことをじっと観察した。夫人は何か悪い想像でもしたみたいにただでさえ青白い顔をさらに真っ青にしていた。顔の白さでいうなら先ほどのジョージアナと大差ない。
「ええ、本当に……ようこそいらっしゃいました」絞り出せた言葉はそれだけらしく、続きの言葉が発されることはなかった。
なんだかあまり歓迎されていないみたいね。普段ならまず「お元気でしたか?」から始まり「きっと冷えているでしょうからサルーンでおくつろぎくださいね」と続くものなのに。なんだか二人の態度は喉に小骨がつっかえたような些細な不信感があった。
「一体なんだっていうの? ベネット夫妻は聡明だし、いくらわたしのことが内心で大嫌いだとしてもそれを態度に出すような人たちじゃないと思うけど……」と考えたが、アメリアの思考は招待客の談笑の声に流されて散り散りになった。サルーンの賑わいはもはや手を伸ばせば届く場所にある。全身の血流が逆流しそうな興奮の前ではそんなちょっとした疑念は何の意味ももたらさなかった。「ま、そんなことどうだっていいわね。何しろ、夢にまで見た社交界はすぐそこなんだもの!」
アメリアは思考をさっさとくず入れに投げ捨てると、様子のおかしい二人に一礼して、ついにサルーンに足を踏み入れた。
サルーンではシャンデリアの明かりが煌々と輝き、人工の太陽みたいに招待客を照らしていた。床はしっかりと磨かれてドレスが反射するほど光沢がある。招待客はあちこちで活気ある談笑を繰り広げ、視界には華やかにめかし込んだ淑女や立派な背格好の紳士がいっぱいに映り、その活気だけでアメリアは心が満たされる思いだった。
アメリアは背筋をしゃんと伸ばし、ドキドキと高鳴る心臓を感じながら、口元に愛らしい笑みを浮かべた。唇を噛むなんて小細工する必要もなく、頬は恋する乙女みたいに火照ってほんのりと朱がさしている。アメリアは宙に浮くような気持ちを抱きながらサルーンの奥へと歩みを進めた。一歩一歩と足を進めるたびに招待客は否応無しに主役に視線を向けた。女たちは恨みと嫉妬と憎しみの混じった目で。男たちは欲望と羨望と恍惚の混じった目で。注目が集まるたびに全身に抗いがたい甘美な喜びが満ちあふれる。
男たちは甘い香りにつられる虫みたいにあっと言う間にアメリアのことを取り囲んで我先にと挨拶の権利を奪いあった。
「アメリアさん! お久しぶりですね! 今日もいらっしゃらないのかと思いましたよ」
「戻ってきてくれて本当に嬉しい限りです。あなたのいない舞踏会がどれほど退屈だったか!」
「相変わらずまばゆいばかりの美しさですね」
「もしよろしければ一緒に踊っていただけませんか?」
アメリアは自分が求められているという事実にご満悦で、にこにこと愛想のいい笑みを振りまいた。緑の瞳は持ち主の機嫌を反映してきらりきらりと輝き、紳士たちの素直な視線をわしづかみにした。
「ええ、もちろん! きっと一緒に踊るわ。だから絶対に他の方と約束なんてしないでね。約束よ!」
アメリアの一言に、男たちは胸中を期待と喜びでいっぱいにした。どの顔にも愛を勝ち取った人間特有の誇りと自負が見てとれて、アメリアはそんな紳士を眺めては心の中で腹黒いことを思った。
「みんな本当に単純だこと! でもせっかく戻ってきたんだから今日はあの意地悪娘たちには良い思いをさせないわよ」アメリアは紳士たちの熱い眼差しと娘たちの嫉妬の眼差しをひらりとかわして今日の〝意中の人〟であるサー・ウィリアムを探した。
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