1-4 非人道的な本

 それからしばらく、アメリアは逸る心をどうにか抑えて、鏡の前で自分を見つめたり、髪型を整えたりしていた。そしていよいよ扉が控えめにノックされるとアメリアは待っていましたといわんばかりに飛んでいった。扉の先にはあからさまに不機嫌な妹が立っていた。ソフィーとデイジーの二人がかりで無理やり着せられた服が相当憎いらしく、ドレスの端をしわが寄るほど力強く握っている。口はへの字に曲がり、少なくとも日付が変わるまではこの状態から戻りそうになかった。

 それからアメリアはジョージアナの出で立ちをまじまじと見つめて、なんとも歯がゆい思いを抱いた。ジョージアナのドレスは簡素も簡素で、舞踏会に向かう娘というよりは修道女のような出来栄えだった。折角、肩を露出させたドレスをまとえるというのに、その服はモーニングドレスのように露出が控えめで、ほとんど詰め襟といっても過言ではない。辛うじて白い鎖骨が覗いているがそれもレースの縁取りのせいでろくに見えない――それなのに、ジョージアナは落ち着かないらしくしきりに首元に手を持っていっては眉を寄せていた。それどころかネックレスもイヤリングもつけておらず、全くもって見応えがない。そんな様子なのでジョージアナはなんとなく厳格で近づき難いオーラを放っているように感じた。

「ネックレスでも付けたらどう? 貸してあげるわ」

「ネックレスなんて首輪みたいだし、そうやって、耳にじゃらじゃらつけるのもお断りよ。アメリアは男に媚びるのが好きかもしれないけど、わたしはそうじゃないから」

 アメリアは深く追求しなかった。どうせジョージアナに口論で勝てないのはわかりきっているし、何よりやる気のない淑女がいるのはいいことだ。自分と競うライバルが一人減るという事なのだから。

「本当に嫌になるわ。毎週のように会ってるし、こんな田舎で何か変わるわけでもないのに。毎回毎回、馬鹿みたいにめかし込んで、それで得られるのが紳士と踊る権利っていうんだから本当に呆れる! 早く終わってくれないかしら」

「なら楽しむことよ、楽しければ時間なんてあっという間に過ぎて行くでしょ?」

 ジョージアナは渋々姉の後ろに続いたがその歩みは牛歩も良いところだった。階段を一段下りる度にジョージアナは顔を暗くさせて、それとは反対にアメリアはどんどん笑顔になっていく。さながらアメリアがジョージアナの生気を奪い取っているかのようだ。ジョージアナはついに階段の途中で立ち止まってアメリアに問いかけた

「お母さまもお越しになるの?」相変わらず声は重々しくうんざりとした気持ちが溢れていた。

「いいえ? わたしとお父さまが必死に止めたもの。ダーシー医師ももう少し毅然とした態度ではっきりと仰っしゃればいいんだわ。きっとお医者さまの言いつけならお母さまも守るでしょうし」ジョージアナはアメリアの言葉なんてまるで聞いていないようで「ふうん」と短く興味なさげに返事をして踵を返した。「忘れ物を取ってくるから先に行ってて」

「忘れ物?」とアメリアは不思議そうに首を傾げてみたが、その考え事はすぐに中断された。階段の下にはエレンがソフィーに支えられる形で立っていた。エレンは遠目で見てもわかるくらい青白い顔をしていて、胸の痛みを庇おうとしているのか、背中が丸まっているせいでいつもよりも一回り小さく見えた。しきりに小さく咳をして、苦しみに顔を歪めているところをみると体調は良くなさそうだったが、エレンはアメリアを視界に捉えると口元にいつもの優しい微笑みを浮かべた。

「そんな心配そうな顔をしなくたって、大丈夫ですよ。これでも良くなっているんですから」エレンはアメリアにそっと近づいて、優しい手つきで頬を撫でた。病気のために母の手はほんのり温かくて心地がよかった。

「あまり羽目を外しすぎないこと、約束できますね?」

 病気を患っていても、母は相変わらず立派な貴婦人だった。一歩歩く度に優雅な衣擦れの音をさせて、張り上げている訳ではないのに良く通る声で家を見事にまとめ上げている。時折どこかが痛むのか、顔をしかめるがそれ以外は病弱な様子なんてこれっぽっちも見られない。アメリアからしてみれば、そうやって無理をするから回復が遅れるのだと思ったが、どれほど口にしても母は休もうとはしないのだった。もともと真面目でしっかりした人柄がここにきて裏目にでていた。医者によれば軽い風邪らしいが、エレンが頑なに休まないからか、それとも何か別の要因があるのか、かれこれ三ヶ月も経つというのに病は一向に治る気配が見えなかった。

「お母さま、心配しすぎると体に悪いってダーシー先生も仰っていたじゃないですか」できない約束は聞かなかったことにして、アメリアは母の手を握ってみた。指は肉がなく骨ばかりで、病気の過酷さを物語っている。よく見れば、少しだけ頬も痩けているようだ。

「アメリアさまが悪い遊びをお辞めになれば、奥さまの頭を悩ませる煩いごとも一つなくなりますよ」ソフィーの言葉も聞き流そうと決意したところで、丁度タイミングよくジョージアナが階段を下りる音がしてアメリアは救いの女神とばかりにそちらに目をやった。その瞬間、ジョージアナは慌てて手を後ろに回して何かを隠したようだった。例の忘れ物だろうか? お母さまに見られるとまずいようなもの? 幸いにもアメリア以外の二人はそれには気が付かなかったらしい。

 ジョージアナが隣に並ぶとアメリアは逸る好奇心を抑えられなくなってさり気なく首を伸ばしそれを覗き見た。パッと見ただけではよくわからなかったが、どうやらそれは古ぼけた本のようだ。表紙は日焼けして茶色っぽく変色していて、もはや汚れと区別がつかない。タイトルの黒字は霞んで拍子と殆ど一体化しており、辛うじてデボス加工の名残が見て取れるくらいだ。アメリアならば触ることすら躊躇しただろうが、ジョージアナにとっては宝物にも等しいらしく絶対に傷つけないよう細心の注意を払っているのが伺えた。

「きっとお父さまの書斎から盗み出してきたのね。本当にろくでもない忘れ物だわ。ダンスに会話に楽しいことが盛り沢山だっていうのに、いつでもできる読書なんかで時間を潰そうっていうのね」どうにかタイトルを読めないかと思って必死に目を凝らしてみると、それがどうやら解剖学の本であるということがわかって尚更ゾッとした。そんなことは露知らず、エレンはアメリアにしたのと同じようにジョージアナの頬を優しく撫でて落ち着きのある口調で続けた。

「ジョージアナ、あなたもですよ。ダンスのお誘いを頂いたらきちんとお受けすること。いいですね?」

 アメリアの頭の中はその非人道的な本のことでいっぱいいっぱいだったが、ジョージアナがしばらくの沈黙の後に「わかりました」と短く返事をすると衝撃で本のことも一瞬忘れかけた。「あのジョージアナが? 嘘でしょ?」ジョージアナの顔を覗き込んでみてもその表情からは何も読み取れない。その返答に面食らったのはエレンとソフィーも同様だった。


 外に出るなり、アメリアはジョージアナを問い詰めた。

「ちょっと、どういう風の吹き回し? まさか本当に踊るの? それからそのうんざりする本も」

 ジョージアナはびくりと肩を震わせて、玄関の方を振り返った。そして母の姿を探して――ちょうどソフィーに付き添われて寝室に向かおうとしている最中だった――どうやら聞こえていないらしいと判断してほっと肩を下ろした。

「お母さまに言いつけたら許さないからね」

「そんなことしないわ、楽しくもない。でもソフィーは絶対告げ口するわよ。それよりも、ねぇ、本当に踊るつもりなの?」

 ジョージアナは気分を良くして演説でもするみたいに得意げに話し始めた。

「ええ、もちろん。ね。でもそんなこと起こらないでしょう? わたし、アメリアの悪巧みは全部わかってるもの。悪いけど、さっきのソフィーとの会話筒抜けだったのよ」

 ジョージアナとアメリアは馬車に乗り込んだ。御者のジョンは相変わらずアメリアに萎縮しっぱなしで、軽くお辞儀をして、とても控えめに手を貸しただけだった。しばらくジョンをからかって遊んでいると遅れてソフィーも馬車に乗り込み、ジョンは真っ赤な顔をしたまま馬に鞭をあてた。

 馬車に揺られている間、ジョージアナは一言も発することなく黙々と解剖学の本を読み続けていた。何か面白くないことでも考えているようでその眉間には無意識的に皺(しわ)が寄っている。ソフィーはジョージアナが本(しかも淑女が読むようなものでもない!)を持ち込んでいるのを見て頭を抱え、しきりに「奥さまに面目が立たない」と嘆いていた。しかしジョージアナは自分の世界に潜り込み、ジョンは淑女たちの会話に口を挟む勇気もなく、アメリアはといえばどうやって紳士たちを魅了しようかと画策していたので、それを慰めるような言葉は誰の口からも発せられることはなかった。

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