子羊たちは眠らない 第二章 子羊の目覚め

第5話 女優 慈代

　演劇部の練習の日がやって来た。言われていた通りざわついている。三年生の和美（かずみ）が恵人（けいと）に耳打ちした。

「あなた……慈代（やすよ）に謝りなさいよ」

「よう恵人、やるじゃん」

三年生の雅也（まさや）が恵人の肩を叩く。雅也は演劇部一のイケメンで演劇部だけでなく大学内外を問わず人気があった。

「いいんじゃないの……俳優はモテなきゃ……な」

と言って、もう一度、恵人の肩を叩いて去って行く。

「サイッテー」

それを見ていた和美が雅也の背中に向かって言う。

雅也は振り向かず手を振って清田（きよた）たちの方へ行った。

　瑞葉（みずは）は他の一年生たちと話をしていた。一年生女子が瑞葉を取り巻いている。瑞葉は一年生の中では一番美人だと周りも認めていた。特に仲のいい木原芽衣（きはらめい）は、なにかと瑞葉を応援してくれる。

「瑞葉、慈代さんに負けちゃだめだよ。私たちが守ってあげるから」

「いや、あなたたちは慈代さんを知らないのよ」

　慈代が稽古場に入ってきた。いやでも全員の注目が集まる。誰もが、慈代をあからさまには見ないが、意識が全集中しているように思えた。

　怒っている……瑞葉はそう思った。慈代は瑞葉の方を見向きもしない。芽衣がその空気に耐えられなくなった様子で慈代に近づいて行った。

「慈代先輩。瑞葉のことを怒ってるんですか？」

「……」

「でも、瑞葉が恵人先輩を好きなのは別にいいんじゃないですか？」

稽古場の中が静まり返った。

「あなた……芽衣（めい）さんだったかしら」

振り返り、一歩、芽衣に近づく。

芽衣は後ずさりし、少しよろめいた。

「あなた……勇気あるのね」

　そして、そのまま芽衣の横を通り過ぎた。芽衣は思わず道を開けた。

ゆっくり、まっすぐ瑞葉の方へ近づいていく。

　緊張する瑞葉。『ぶたれる……』と思った。身体（からだ）が縮まる。瑞葉は自然に下を向く。涙が出そうになった。『怖い……』震えていた。

慈代が瑞葉の顔を覗き込むように、下を向く瑞葉の顔を見る。

部屋にいる全部員に緊張が走った。一触即発という言葉はこういう状況を表すのだろうと誰もが思った。恵人は『瑞葉を助けないと……』と思い近づこうとした。

慈代が、もう一歩、瑞葉に近づいた。

「震えてるの？」

瑞葉は拳を握りしめるようにして首を振った。

『平手打ちされる……』震えながら恐怖に目を閉じる瑞葉……

「瑞葉さん……あなた……綺麗よ」

慈代は瑞葉の唇にキスした。

時間が止まった……

目を見開き、身動き一つできない瑞葉……

心臓の鼓動が止まらない。

そこにいた全員が言葉を失い、その光景に、目も、心も奪われた……

優しく唇をはなす慈代。

瑞葉は膝（ひざ）からくずれるように、その場に座りこんだ。

「瑞葉さん……恵人君にしたキス……返してもらったわね」

そう言って慈代は去って行った。

瑞葉は何も言えなかった。涙がこぼれた。

一年生の女子たちが彼女の周りに集まって来た。

「大丈夫？　瑞葉……」

「好き……」

「え？」

口を覆い瑞葉は泣いた。

「慈代さん……素敵……私、慈代さんを好きになったみたい……」