全部夢だから

位月 傘

 吐き気のままに胃をひっくり返せば、口からぼとりと生まれ落ちたのは一冊の本だった。無意識にページをめくってみれば、中身は白、白、白。インクの染み一つ無い。本と言うより分厚いノートと言うべきか。どれほど恐ろしいことが書いてあるのかと思えば、ただの白紙だ。


 なーんだ、つまんないの。


 そう言って笑い飛ばそうとして声が出ないことに気づく。次いで手の感覚が無くなっていることに気が付いて目を向ければ、指先から砂のようにさらさらと崩れ落ちていくのが見えた。

 

「ひっ、」

 

 かろうじて漏れ出た悲鳴は吐き気によって押し込められる。口からあふれ出てくるのは本、はさみ、ナイフ、りんご、脈絡のないものばかりだ。何かが喉に引っかかって呼吸が止まる。


 苦しいのに視界も痛覚も明瞭だった。今度こそ本当に死ぬかと思ったそのとき、私の手のひらを、男の手がすっぽりと覆った。

 感覚さえも鈍らなかったのは幸いだったかもしれない。でなければ低い男の体温に気づけず、冷静さを取り戻すことも不可能だっただろうから。


「落ち着いて、ナイトメア。きみは何も吐いていない。深呼吸だってできるはずだ」


 低く平坦で、しかし無関心ではない男の声は、この現象が初めてでないことの表れだった。男の促すままに呼吸を繰り返せば、鼓膜が破れんばかりの耳鳴りも次第に収まる。


「指先の感覚に集中してみなさい。きみは何一つ失われていないと気づくだろう」


 そう言われてみれば確かに男の手に覆われて視認できないものの、人肌を感じることが出来た。彼が冷たいのではなく、私が熱いだけだったのだろう。


 顔を上げる。温度の低い手の正体を確認する。そして男が見知った相手であることを認識して、私はようやくこれが夢であることに気づいたのだ。 


「今夜もありがとう、テイパー」

「あぁ。まだ日も昇っていない。もう少し眠るといい」

「……分かった。よろしくね」

「あぁ。それじゃあいつも通り、自分の一番好きな場所を思い浮かべるんだ。陽の暖かさ、頬に風が撫でる感触、小鳥のさえずる声を思い出して」


 耳障りの良い柔らかい言葉に、ひっそりと胸が痛む。男の言う通りにするのは癪だった。彼が嫌いだからではない。

 理由を語るには、まず私の御先祖さまの話まで遡らなければならない。といっても、そう壮大な話でもないのだが。

 

 私の御先祖さまは魔女に呪いをかけられた。末代まで続く『必ず悪夢を見る』呪いだ。

 一見地味に見えるがこれが厄介だった。叔父なんかは精神を病んで自害してるし。

 そんなこんなで私にまで続いている呪いだが、一時的になら解決法がある。それがテイパーであり、つまるところ触れた相手の夢の中に入れる能力をもった人間――魔法使いの存在だった。


 彼は元々我が家門の騎士であったが、ある時魔力があることが発覚した。私も幼い頃から知っているこの男だからこそ、触れられるのも頭の中を覗かれるのを良しとしたのだが、かといって彼は私のためだけに囲うには騎士として優秀すぎた。一騎当千とは彼のことを指すために生まれた言葉だと言っても過言ではない。

 おまけに呪いについては限られた者しか知らない。テイパーを毎夜ご令嬢の部屋に通うだけの男にしてしまえば、彼の父君は真面目な方だから、私よりも家門の地位が低いとしても怒り狂って無理やり彼を実家に引き戻すだろう。

 

 癪の理由がこれだ。男は朝からは騎士として働き、夜には私の手を握って夜番をしてくれる。テイパーはどんな言葉を訴えようとも、それを受け入れることはない。つまり全て無駄ということだ。それが分かったから、わざわざ夢の中で言い募ることはしない。


 しかしそれは諦めたと言う意味ではない。私が諦めの悪い人間だということは今や彼の知るところとなっており、彼が頑固で堅物な人間だということも、何より私は知っている。




 目を覚まし寝間着を脱ぎ捨て、身支度を整えて、ついでに口元に笑みを浮かべて見せれば立派な淑女の完成だ。屋敷にいる大抵の人間が私のお転婆の数々を知っているため、あくまでそう見えるだけだけれど。


「テイパー卿、出かけたいから付き合ってくれる?お父様にはもう話しているから」

「分かりました。どちらに?仕立屋?宝石店?それとも流行りのカフェーですか?」

「それはもちろん――」


 手元のバスケットを男の目の前に掲げてみせて、横からぱっと顔をのぞかせる。笑みがこぼれたのは私の食い意地が張っているからではなく、使用人の作る料理がおいしいからだ。他に理由なんてない。当然だ。今の私は淑女なのだから。


 


 ピクニック、とはいってもそう遠くに行くことは出来ない。突発的なものであることもそうだが、何より私は名家の跡取り娘なのだ。いくらテイパーが優秀な騎士であるからといって、お父様になんの連絡もなく、たった一人の騎士を連れて遠方まで飛び出したなんて知れたら大目玉である。


 私の庭園に入る時、男はいつも居心地悪そうにする。うっかり花を潰してしまわないか不安だからだ。それを聞いた時図体のわりに気の小さい男だと揶揄って困らせたのを思い出して、つい笑ってしまいそうになったのをこらえる。


 庭園の中にある椅子を通り過ぎて、大樹を背もたれに草地に腰掛ける。彼は呆れてため息をついて、形式的に声を掛ける。


「淑女はどちらに行ったんですか」

「さぁ?どこかでティータイムでも楽しんでいるのではないかしら」

「お嬢様――」

「行儀の良いお嬢様の時間はおしまい!テイパーもほら、そこに座って!」


 再度男はため息を吐くと、恐る恐る私の隣に腰を下ろす。花どころか草にまで遠慮をするのだから、とことん変な男だ。もっとも彼が気に掛ける草花はこの私の庭園の中の物だけなので、私にとってはある種の可愛げでもある。

 

「あなたってば、休んでって言っても目を離すとすぐに何かしようとするんだもの。時々こうやって連れ出してあげなきゃ、そのうち倒れちゃう」

「……君が俺を気にかけてくれていることは分かっているし、嬉しくも思う。だがその心配は無用なものだ」

「騎士さまが私の『夜の見張り』を辞める時が来たら心配も必要ないかもね」


 見なくたってわかる。テイパーは苦虫を嚙み潰したような顔をしているんだろう。だけど知るものか。そっちが意地を張るなら、私だって同じようにする。

  

 彼は信じられないくらい頑固だから、意見するときは覚悟を決めて同じように振舞うか、もっとのらりくらりと反撃をかわすしかない。つまり根競べだ。

 

 お菓子に手を伸ばしながら、隣の男の肩にもたれる。咎める声音にやっぱり可笑しくなってしまった。

 だってもう随分昔から毎夜同じ部屋で過ごしているというのに、こうした他愛のない触れ合いが悪だなんてどうして言えるのだろう。

 確かに私たちは本当に毎夜ただ手を繋いでいるだけだ。そこに色はない。だけど客観的に見て、そして実情を知らない者からしたら、私たちの関係はどんな風に見えるんだろう。


 テイパーは諦めて、私の体を慮って身を寄せた。甘えられると弱いのは昔から変わらない。


「ねぇ、無理しないでね」

「約束は出来ない。騎士とは有事においてこそ役立たなければならないからな」

「そういうんじゃなくてさ……分かっててはぐらかしてるでしょ。ちゃんと答えてよ」

「さぁ?ここにいるのがお嬢様でないなら、俺に命令を聞く義務はない」


 頑固者に対する対処法に関して、彼は私と同じ考えを持っているらしい。のらりくらりと交わす言葉を、よくもまぁ澄ました顔でぺらぺらと話せるものだ。

 憎たらしい口に菓子をつまんで差し出せば、抵抗もせず男は口に含んだ。テイパーが何かを食べているときの姿は、いつもより無防備に見えるから好きだ。彼は神様や英雄なんかじゃなくて、ただの人間であり、私が彼に無理を強いていることを思い出させてくれるから。


「……ナイトメア、メア」

「うん?」

「無理をしているつもりはないし、仮に無理をしていたとしても、この役目を下りるつもりはない」


 言うだけ言うと、テイパーは目を閉じて力を抜いた。どうやらこのまま眠るつもりらしい。

 休ませてやりたいという目標は達成できそうだが、これでは話を聞いてもらうことも出来ない。かといって無理やり起こしては本末転倒だ。ベッドで眠るような質の良いものではないけれど、それでも眠らないよりはマシだろう。


 仕方がないので、この間に話し合い以外の解決策を考えるべきだろう。時間は有効に使うべきだ。私もいつ叔父のように気が狂ってうっかり死んでしまうとも限らない。話を整理していこう。

 

 問題として単に私の夢が彼以外に見られたくないということもあるが、昔から「夢は人の心を映す鏡」という言葉があることがあげられる。根拠のないただのことわざのようなものだと吐き捨ててやれれば一番良いが、今でも熱心に信じられている。特に年齢が上の、より詳細に言うならば権力を持っているような人間たちの間で。


 そんな中私が夜な夜な凄惨な夢ばかり見ていると広まってみろ。あそこの娘は気狂いだと話が広まるのがオチだ。ついでに叔父さんの話も蒸し返されるかもしれない。貴族も平民も、他者の死を囃し立てるのが好きだから。


 私にはまだ広まった風習をすぐさま捨てさせる力があるわけでもない。やっぱり口の堅い魔法使いを見つけて囲うべきだろうか。嫌は嫌だが背に腹は代えられない。

 

 なんとはなしに、テイパーの顔を見る。眉間の皺を見るに、あまり良い夢は見ていないようだ。

 馬鹿みたいかもしれないが、それが可哀想だった。毎夜私が悪夢を見ることよりも、男が一時でも安らかに休めないことの方が、嫌なのだ。


 ずいぶん昔、彼がおまじないと称してしてくれたように、少し身を乗り出して額に口づけた。たったこれだけの行為に、口から心臓が飛び出そうになるなんて、彼が知ったら笑うだろうか、軽蔑するだろうか。


 毎夜2人きりで過ごしている。手を繋いでいるだけ。騎士はお嬢様を特別に想っているらしい。家族として。だけど私はそうではない。紆余曲折を経て、結局三流ゴシップのような結論が真実なのだから馬鹿らしい。男を起こさないように、ひっそりと笑い声を溢した。




 今回は珍しく、明確に意識を持った瞬間にここが夢だと気づいた。だからといって不快にならないわけではないが、心構えは出来る。

 落ち着くために息を吐けば、すぐに劈くような悲鳴が耳を刺す。振り返れば女が男に襲われている。

 私の体は戸惑う私の意思に反してすぐさま駆け出し、少女を助け出す。彼女は振り返りもせず逃げ出すと、男は私にターゲットを移したらしい。すぐさま押し倒されて、そこではじめて男の顔を認知できた。

 

 よく見知った男だった。そこで私は初めて彼女を逃がしたことを良かったと思った。男が少女を手にかけていたら、すごく嫌な気持ちになっていただろう。それは目の前で誰かが無残な姿になることへの恐怖や嫌悪からではない。醜い恋情から来る嫉妬によるものだ。


 なるほど、これは悪夢だ。これが夢だと気づいて、初めて悪夢になる夢だ。私は見ず知らずの哀れな少女の心配より、一時の悋気が優先されていると自覚して、己の罪深さに眩暈がした。

 そしてなんの目的にせよ、テイパーが私に触れているという事実に喜んでいるのだ。なんて浅ましいんだろう。これでは「夢は人の心を映す鏡」なんて言葉もあながち間違いではないな、なんて逃避していれば、ふと体の上から重みが消える。

 

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。理解したくなかったと言ったほうが正しいのかもしれない。


「……薄汚い獣が」


 聞いたことの無い声だった。だからそれがどういう感情を意味するものなのか分からない。先ほどまで私の首に手を掛けようとしていた男が、今は私の前に立っている。蔑むような瞳と目が合った。

 

 ……いや、違う。同じ顔をした男が、もう一人の自分を蹴飛ばしたのだ。何故?私の悪夢を止めることが出来る人間なぞこの世で一人しか存在しない。気づいた瞬間、考えるよりも先に悲鳴をあげた。


「見ないで!」

「ナイトメア――」

「見ないで、違う、ごめんなさい、ちが、私……」


 次第に言葉は尻すぼみになっていく。嗚咽は言葉を飲み込んだ。

 見られた、見られた、見られた!最も浅ましい姿を、よりにもよって彼に見られた。喉を掻きむしる。いっそ舌を噛み切ってやろうか、そうだ、きっとそれが正しい。


「メア」

「う、うぅ」

「触れてもいいか?」


 どんなに取り乱していたって、例のごとく感覚は明瞭だ。いつも通りの彼の言葉に、黙って頷く。普段より遠慮がちにな背中を撫でる手が暖かったから、好きだと思った。


「これは夢だ。いつも通りの。君が望めばいつだって悪夢は消し去ることが出来る」

「ごめん、私……」

「君が謝ることは何もない。これはただの夢なのだから」


 どこまでも優しいその言葉に、浅ましくも私は傷ついた。ただの夢だと切って捨てるには、私にとってあなたは大きすぎる存在だというのに、男はこともなげにそう言って見せるから。

 

 冷静に考えるならば、ただの夢だと笑い飛ばしてもらったほうが良いに決まっている。妹のような存在が欲を向けて来ただなんて、彼からしてみれば気持ち悪いだろう。

 

 理性が戻ってきて、意識が覚醒へと向かう。私が目を覚ますと体からそっと温もりが離れる。男の背中がぼんやりと見えて縋ろうとしたが、喉がひっついて声が出せないうちに姿が見えなくなっていた。


 体勢の問題もあって寝起き特有の気だるさが体を支配して、なんとなくすべてが夢――もちろん比喩的な表現だが――であったのではないかとすら思う。しかしテイパーの外套だけが私にかけられていて、それは全てが真実であったことの証明を為した。




 あれから特に画期的な解決策も魔法使いの当ても見つかることはなく、ただ無為に時間は過ぎて行った。彼も私も、あの日の夢については触れていない。ただうっすらとした、しかし無視できない淀みが私たちの間に漂い続けている。

 

 だから、きっと罰が当たったのだ。


 テイパーが倒れたのだと聞いたのはその日の夜だった。

 

 カツカツと音を立てて廊下を早足で進む。今夜だけは私を咎める声は一つも聞こえなかった。

 目的地にたどり着き、勢いのまま扉に手をかけ、ぴたりと動きを止める。

 それは病人への配慮からではない。彼が倒れたのは私のせいだ。それなのにのうのうと心配の言葉をかけ、もっと自分に気を配れと叱責するのだろうか。


 息を吐く。肺が空っぽになるくらい。そうして初めて冷静になれる気がした。

 意を決してノックし返事を待てば、予想に反して返答はなく、代わりに扉が開かれた。


「メア」


 驚いたのは彼も同じらしい。いつもよりラフな格好で目の前に立つ男は、珍しく目を丸くして立ち尽くしていた。


「病人がそう動きまわるものじゃないよ、ほら座って座って」

「お、おい!」


 体をぐいぐい押すことで部屋に入る。困惑を声にあげていたが、それでも私を振り払うことはしない。

 彼を寝かしつけるようにベッドに押しのける。流石にと言われて座らせるにとどまったが。


 テイパーの隣にすとんと腰掛ける。夜着のままやってきた私の姿を見た彼は複雑そうに眉間に皺を寄せたが、なんの小言を言うことも無く、ただ息を吐いて顔を俯かせた。


「もう起きて大丈夫なの?体の調子は?」

「問題ない。すぐにでもきみの部屋に行こう。わざわざ足を運ばせてすまなかった」

「あら、私が病人を働かせるような主人に見えたのかしら」

「病人ではない。だからきみが気に掛けるようなことは何もない。俺の認識の甘さが招いた結果だ」


 男は頑固だ。だから回りくどい言い方をしたって仕方がないし、今話すべきことはたった1日の仕事を休むか休まないかという話ではない。


「……ねぇ、やっぱりあなたは魔法使いの真似事なんてもうやめたほうが良いわ」

「子供の頃は俺が傍にいないと眠れなかったのに、俺の仕事をままごとだと言うのか」


 俯いたままの彼の表情は見えない。しかし彼の喉がひくり、と震えたのが分かった。怒りを抑え込むために震えたのだ。しかし抑えたところで男の言葉には冗談とするにはいささか刺々しい言葉が混じったのは確かだ。


「きみが気にすることは何もない。それとも毎夜悪夢に苦しんで病むつもりか」


 怒りを抑えきれない男の言葉が、私の堪忍袋の緒を切った。体がかっと熱くなり、熱は次第に目元に集中する。今話しているのは、私のことではないのに。どうしてこうも自分を蔑ろにするのだろう。


「何もないわけないでしょう!!」


 咄嗟に叫んでしまったことは悪かったと思う。病人の部屋に押しかけて、いったい何をしているのだろうと。しかし私は、この男のこういうところが嫌だった。関係ないわけないのに、一人で背負い込もうとするところが。


「あなたが苦しんでいるのに、何もないわけが、ないじゃない……」

「ナイトメア……」


 息を吐く。肺が空っぽになるまで。少しだけ涙が引っ込んだ気がした。

 彼が私の零れてもいない涙を拭おうと手を伸ばすから、それを振り払っていつの間にか顔を上げていた彼を見つめ返す。男の顔には心配の色が隠そうともせずに浮かんでいた。


「あなた以外の魔法使いを雇う。そうすればあなたは騎士としての職務に集中できるし、私はあなたが心配しなくても悪夢を見ないで済む」


 魔法使いの当てあるわけではない。いつ条件に合うような相手が見つかるかも分からない。仮に見つかったとしても、彼のように毎夜頼むことは難しいだろう。相手にも生活というものがある。


 もしかしたら、彼を傷つけるかもしれないとは思っていた。任から外すことは、お前には無理だと言っているようなものらしい。だから話すならもっと落ち着いて、相手に気負わせないようにと頭の中で何度も考えていたのに、ずるずると先延ばしにした結果がこれだ。

 話している内に気持ちも声量も萎んでいく。彼が私を責めているような気がして、挑むような気持で向けていた視線が徐々に手元に落ちる。


「だから、」

 

 ベッドが軋む。男が体を動かしたからだ。手首を掴まれて、顔をのぞかれる。見たことの無い顔をしたテイパーに言いようのない恐怖を覚えて逃げ出したくなるが、掴まれた手首のせいでそれは叶わなかった。


「他のやつと夜を共にするのか?頭を覗かれ、心をさらけ出すことも厭わないと?」

「変な言い方しないで、ただ――」

「『ただ手を繋いで眠るだけ』?」


 明らかに人を馬鹿にした声音だった。世間知らずな子供を憎たらしく思うような顔だった。背筋が冷える。幽霊でも見たような心地だ。

 いくらなんでも様子がおかしい。そう感じるのは私が彼にこの嫌悪にも似た感情を向けられたことがなかったからだ。彼はいつだって私に悪意が向かないように守ってくれていたから。


「メア、きみはそのつもりなんだろう。相手がどう思うかは知らないが」

「私に変な気のひとつも起こしたことの無いあなたがそれを言うの?」


 段々相手の言い分、というよりも子供に言い聞かせるような言い方にかちんときてついそう言い返す。合理的な反論ではなかっただろう。これは反論ではなく正しくは八つ当たりだ。


 先日の蔑むような瞳が頭によぎる。あんな夢を見て、こんなことを言えば、私の好意などはっきり口に出さずとも公言しているようなものだろう。

 意気揚々と言い返したはずなのに、私の要望は間違っていないはずなのに、気持ちが冷えていく。的外れな答えを返してしまったあとの、一瞬の静寂がいつまでも続いているような空気が首を絞める。


「俺がきみに手を出していたら、こんなことを言いださなかったのか」

「ありもしない話をしないで」

「ありもしない話などではない」


 手首から手が離される。そこを撫でる温度だけがやけに冷たかった。

 思わず顔を上げる。やはり男が私に『万が一』気を起こすようなそぶりを見せないまま、言葉を繋いだ。


「俺がきみに手を出さなかったのは、ひとえにきみに泣いてほしくなかったからだ。それ以外に理由はない」


 きっと信じられないものでも見るような顔をしていたのだろう。男はふっと自嘲気味に微笑むと、私の方に前のめりに寄せていた体を引いた。


「そして軽蔑してくれ。俺は自分だけがきみの夢を知れることに優越感を覚えていたのだから」

「そ、そんなこと今まで一言も」

「言う訳がないだろう。自分ですら浅ましくて醜い感情だと感じるのに、きみがどう思うかなんて、考えるだけでも恐ろしかった」


 怒涛の情報量がこれまでの数年間の考えを全て否定するから、脳が理解を拒否する。唖然とするのも仕方がないだろう。こちらは十数年間、相手が自分のことを家族としてしか見ていないと諦めていたのだから。


「私がどう思うかは私が決める。あなたに決めつける権利はない!」

「博打の趣味はない。それに悪夢の中で俺の姿が出て来ただろう」

「……?それが?」

「?それほど俺はきみの好意の対象になることがあり得ないということだろう?」


 彼は無垢な子供のように首を傾げるから、気が抜けてため息が零れた。淑女らしくはなかっただろう。心なしか頭痛がする気もする。

 なんてことのない答えにたどり着くまでに、随分と遠回りしてしまったらしい。それも意図せず事故によるものだなんて、馬鹿みたいだ。

 

「私たちの間で認識の齟齬があるということは理解したわ。えぇ、それ自体は構わない。だってお互い言葉にしていないんだもの。当然よね」


 相手が頑固だと思っていたのは、私に相手の言葉を聞く余裕がなかったからだ。自分が正しいのだと傲慢にも思い込んでいたからだ。

 しかし私の思い込みは否定され、あらぬ角度から答えは飛び込んできた。だったら方法を変えるべきだ。彼が頑固者だということは事実なので、上手くいくかどうかは分からないが。


「だから話し合いましょう。あなたの気持ちも分かったことだし、譲歩できる点を探しましょう」

「俺を嫌悪しないのか」


 気が抜けたついでにうっかりまた声を上げてしまうところだった。テイパーはこてんと首を傾げたままだ。仕草だけは可愛いが、この男本気で言っているのか。まさかここまできて、はっきり言葉にさせようとするだなんて、私に何か恨みでもあるのだろうか。当然、そんなわけが無い。


 観念して深呼吸をひとつ。テイパーが意地の悪いことをしているわけではないことは考えなくても分かっている。私だけが気持ちを伝えないことは不公平だとも。ただ恥ずかしいだけなのだ。


「あなたが好き。焦がれて夢に見てしまうくらいに」

「嘘だ」

「乙女の一世一代の告白になんてこと言うの」

「ナイトメア、きみの好意の根拠をあの悪夢だとするならば間違っている。きみの夢に俺が現れたのなら、それは俺がきみを想っているからだ」

「顔を赤くして屁理屈こねないで」


 頬どころか耳まで染めておいて、自分のことは棚にあげて否定するだなんて。私が呪いが無い普通の女の子だったなら百年の恋も冷めているところだ。

 だけど私には彼の気持ちが手に取るように分かるのだ。だから許してあげる。それも今日限りだけれど。


「好意を語るのに、夢を引き合いにだすのは辞めましょう?夢にまつわる言い伝えなんて、所詮昔の人が作ったおとぎ話にすぎないもの。それともなぁに?あなたは私が毎夜凄惨な夢を見ているからって、私が誰かを傷つけることを好むような人間だと思っているの?」

「いいや」


 返事は早かった。即答と言っていいだろう。にっこりと笑って男の肩を押した。覆い被さる形になって、男はぎょっとした顔で身じろぎをした。


「まぁ私たちの気持ちとあなたが倒れたことは話が別だから、あなたに負担を掛けない方法はまた今度話し合わないとね!今日はとりあえず安静に休んでなさい」

「……分かったから、早く、退いてくれ。きみは今一度自分の行動が相手にどういった影響を与えるのか考えてから行動してくれ」

「何よ。二人きりの場でも淑女らしくしなさいなんて言うの?」

「………………はぁ」


 ふん、とそっぽを向いてベッドから降りる。彼を見下ろすことは珍しくて、好奇心から指通りの良い髪をそっと撫でてやる。

 想いが通じたからといって彼が倒れたことの責任が免除されるわけではない。むしろ想いが通じたからこそ、今後も彼には負担を強いることになるだろう。私だったら好きな相手が毎夜知らない人と寝てたら嫌だし。


「俺が倒れたのは水分不足による日射病によるものだ。きみのせいではない」

「でも夜のことが全く関係ないとは言い切れないでしょう」

「それは悪魔の証明だ。これ以上話したところで無意味な水掛け論にしかならない」

「議論がしたいわけじゃないの。ただ心配したいだけ」


 そう言えば男はよく回る舌をふっと止めてしまった。こうも簡単に黙らせることが出来るなんて。なんでさっさと素直にならなかったのかと後悔するほどだ。

 他人からの好意に弱いのか、私からのもの限定なのか。後者だったら嬉しいが、効果があるうちは実態はどちらでも構わない。


「だから諦めないで、二人で解決策を見つけましょう?私にだって、あなたを大事にする権利があるはずだもの」

「きみはずっと昔から、優しくしてくれているだろう」

「まだまだ足りないわ。だってあなたが他に目移りしないように、もっと骨抜きにしないと!」


 ぴょんっとベッドに手をついて体を乗り出す。男は驚いて体を動かしたが、ベッドの上に逃げ場はない。注意しながら額に口づける。成功だ。

 それからとびきりの笑顔を作って見せる。魔法使いになる前の彼が昔悪夢を見て泣いている私のために慣れない慰めをたくさんしたこと、機嫌を直して笑ってやれば安心した顔をしたことを思い出した。


「唇にはいつかあなたからしてね。私の騎士さま」

  


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