11-3

「あれ? 北原どうしたんだい。一人で図書室なんていて」

 見回りで図書室を訪れた仁は、他に誰もいない教室で一人読書している光に気づいた。

「あ。ジン先生」

「明日は卒業式だね。お前さんがこの学校の生徒としてこの図書室を利用するのも今日で最後だ」

「うん。最後だし、ちょっと長くいちゃった」

「それは大丈夫。なんの本だい?」

 と、仁は光の読んでいた本を覗き込む。

「『漫画家になるためには』?」

「うん」

「お前さん、漫画家になりたいの?」

「なりたいのかなー、みたいな」

「なるほどなるほど」と、仁は光の横に座った。「なれるといいね」

「いや、なんか、積極的になりたいとかっていうわけでもいまはまだちょっとなくて」

「うんうん。わかるよその気持ち」

「……ただ、なんか、おれ、漫画とか好きだし。絵を描くのが好きだから」

「可能性があるなら賭けてみるのもありだよ」

「まあ、そうなんだけどね」

「なにか問題が?」

「いやだって、狭き門だし」

 ふふ、と、仁は笑いかけた。

「例えば、教師になるためには教育学部に行く必要がある」

「だよね」

「漫画家になるためには?」

 光はちょと考えた。

「えーとその理屈でいくと……文学部に行く?」

「近いけど遠いな。漫画家になるための道を進むんだ」

「要は投稿とか持ち込みとかだよね」

「それもある。でもね、世の中には、それを教える人っていうのがいるんだよ。その人は夢追い人が自分のところに来てくれるのを待っている」

「わかった。専門学校とか、プロのアシスタントとかだ」

「というのも、選択肢の一つであーる、ということが伝われば万々歳であーる」

「なるほど……」

「ま、ご参考までに。お前さんならどこいってもやれるだろうけどね」

「そう思う?」

「お前さんはいつもにこにこしてるし、一生懸命だし。みんなに好かれるよ」

 光はちょっと照れた。

「仕事はあんまり上手じゃないみたいだけどね」

「でもね、考えてごらん。仕事はあんまりできないかもしれないけどいつも一生懸命頑張ってて笑顔を絶やさない人と、もちろん性格が悪いわけではないけれどいつもピリピリしていてしかし仕事自体はうまい人。どっちの方がいいだろう」

「そりゃ、理想的には前者だと思うけど、なんだかんだ後者の人が残るんだと思うよ」

「そうだね。でも––––だからこそ、お前さんはどこいってもやっていける。真面目さとか優しさとかっていうのは教わって身につくものじゃないからね」

「うーむ。だといいのだが……」

 と、そこで光は少し考え込み、仁に言った。

「おれ、ずっとバイトしてて」

「勤労学生だ」

「皿洗いのバイトだったんだけど、ずっとおれに当たりがキツいおばさんがいたんだよね」

「大変だったね」

「で、それをみんなに相談したら、上司に相談してみなよって」

「いい友達たちだ」

「それで相談してみて––––ま、結局辞めちゃったんだけど、でも別にそのおばさんとは関係のない理由でさ」

「うんうん」

「うん。で……上司に相談してみたら、そのおばさんとちょっとわかり合えたっていうか。おれがそんな気になっただけなんだけど。でも、ごめんねって言ってくれて。それでおれの方こそごめんなさいって」

「いいことじゃないか」

「まあね。でもなんか、おれ、どうも対人関係でトラブるタイプなのかなあ、みたいな。今回は解決したけど、次はどうなるんだろって。漫画家だってやっぱり人間関係が大切でしょ」

「いや、お前さんはうまくやれる。いまの話を聞いて確信したね」

「なにが?」

 仁は笑った。

「職場の人間関係の悩みを上司に相談して、解決した––––その成功体験は、お前さんの長い人生できっと有意義に働く」

「そうかな?」

「結局、人間の悩みの九割は人間関係の悩みだからね。ぼくを信じなさい」

 光は、ふふ、と、笑った。

「じゃ、参考までに」

 仁はにこにこしている。

「先生、なんか嬉しそうだね」

「そういえばお前さんと二人きりで話すことなんて滅多になかったなあと思って」

「ゲイの教師とゲイの生徒かあ……AVのシチュエーションだ」

「AVはともかく、ぼくとしてはずっとお前さんが心配だったんだよ」

「そうなの?」

 うん、と、仁はうなずいた。

「ちゃんとやっていけるだろうか。ちゃんとやっていられているだろうか、と」

「それは大丈夫。おかげさまで周囲の人たちに恵まれてマジハッピー」

「それならよいのだが」

「……ジン先生は、大変だったんだろうね」

「そうだね。大人になるまでゲイの知り合いができたことがなかったからね」

「悩んだ?」

「悩んだんだと思うよ」

「なに、と思うって」

「もう昔のことだからね。ぼくはもう乗り越えてしまって、それなりに処世術も身についてしまったから」

「身についてっていうのがなんか気になるけど」

「いま悩める子どもたち––––いや、人たちに、いまのぼくは果たして感情移入できるだろうか、と思うんだ」

「おれのこと心配してくれたんだから、できるんじゃない?」

「だといいんだけど」

「乗り越えた者の厳しさ、みたいなのはなんとなくわかるよ。理解した者の傲慢さ、みたいな」

「そうだね。だからお前さんも……自分の闇を大切にしなさい」

 光は怪訝そうな顔になる。

「闇?」

「そう。痛い、苦しい、悩ましい……その気持ちは、もちろん忘れた方が楽かもしれないけれど、だけど忘れた瞬間、他の人たちに同情や共感ができなくなる。自分も乗り越えられたんだからお前だって乗り越えられるはずだっていう、ある種の親切心でもあるけれど」

「“わたしはもっと辛かったんだよ”みたいな?」

「そう。だからね、お前さんもこれからどんどん幸せになっていくけど、自分の闇を忘れずにいられたら、きっといまのままのにこにこしたお前さんのままレベルアップなりアップデートなりができるから。そしたら、きっとうまくいく。絶対大丈夫」

 仁はグッドサインを示す。

「闇か……」

 と、そこでとどめだ、と言わんばかりに仁は言った。

「ま、ご参考までに」

 光は笑顔になった。

「はぁい」

 そして、仁は席を立つ。

「じゃ、そろそろ閉めるよ」

「うん。ありがと」

「おけまる〜」

 結局、先生はいくつなんだろう、というのが、光が遂に解けなかった謎であった。

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