最終話 愛よ安らかに

11-1

 ほんとにゲイっているんだな。

 まあ多様性の時代だし?

 そうそう。日々世の中は進化してるんだよ。

 四月、放送室の一件があったとき、友達たちがそんな話をしていた。もちろん俺も同調する。ま、いろんな人がいていいんじゃない? それでもその程度にとどめた。自分も同じクラスの北原光と同じゲイだとバレるわけにはいかないから。

 友達たちのその話ぶりが俺の心にいつまでも引っかかっている。

 多様性の時代? 世の中の進化? 違う。ゲイは昔から普通に存在している。いまの時代になって突然現れたわけでもなければ増えたわけでもない。もしそう見えるのだとしたらそれはカミングアウトする人が増えてきているということだ。でもそんな話を彼らにするわけにはいかなかった。自分も北原光と同じゲイだとバレるわけにはいかないから。

 そもそも世界は多様にできている。それを俺たちの側が一方的に単一化させている。教室や学食で北原が大黒たちにやや専門的な話をしているのを聞いて俺もそれなりに勉強してそういう言葉を獲得した。それで自分の考えていることや悩んでいることが言語化できたというのは確かによかったと思う。でも、思う。どうして俺がそんなに頑張らなきゃいけないんだろう。大黒や萬屋はなんとなく北原がそういうことを話す前から感覚的にそういったことが理解できているように思うが、石川や真壁たちは話されてようやく理解できていくというように俺には感じた。

 北原みたいなゲイの当事者が同性愛や差別のことを語ることは確かに有意義だし、しなければならないことだと思う。でも、困っている側が一生懸命勉強して頑張って言葉を紡いで、それで困っていない側、がなにも勉強しないのはいくらなんでもアンバランスだ。結局、せっかく北原が話をしてもよくわからなかったとき、それは北原がわかりやすく説明してくれないからだ、と、土橋たちは思うのだろう。それが俺にはどうしても納得いかなかった。

 気になるなら勉強すればいいのに。

 実際、数学だって、わからないことをわかるためにするんだろ。

 どうして同性愛のことならそうならないんだ。

 それでも一見坂東たち七人は仲良くやっているように見えるし、うまくやっているように見える。実際友達なんだろう。それはわかる。でも、噂の三角関係の大黒や萬屋のように積極的に北原のことを理解しようとしているようには見えない。友達だからそれでいいじゃないか、そう言っているように聞こえる。もちろんいろんな形の友情があるからそれはそれでいいんだと思う。でも、例えば真壁なんかはわかりやすくゲイに興味があるようで、もしかしたら本を読んだりしているのかもしれないが、それにしても北原の話を聞くまで真の理解を得ているようにはどうしても俺には思えなかった。それは要するに真壁たちの問題ではないからだ。

 でも、俺自身、同性愛のことを理解してほしい、と、心の底では思っているのかもしれないが自分で思う程度には思っていない。結局のところ俺には異性愛者の苦悩がわからないのと同じように異性愛者には同性愛者の苦悩はわからない。でも、気になる。それならなにを理解してほしいと思っているんだろう。自分でも本を読んだり、ゲイの友達たちと話をしていてなんとなく言葉にできたのは、同性愛のことが殊更に理解できなくても人権が理解できればそれでいいのだということだった。だからそこが重大な問題だということだった。

 “人権”を理解するのは思ったより難しいことだと思う。以前読んだ本で、欧米の人権の概念は、人間は神の前で皆平等なだけでそれ以外では概ね不平等なのである、ということが書かれていたが、そうであるなら神の概念のないここ日本で人権の概念を直感的にも理解するのは相当難しいことなのではないだろうかと俺は思うのだ。

 だから結局、いろんな人がいていいよね、と、一般論でまとめるしかないのだろう。そうするしかないのだろう。だから、どうしても“同性愛者を理解し、配慮する”ということが面倒臭いことに思う。いちいち配慮しなきゃいけないっていうのが面倒臭いのよね、みたいな。

 通常の人間関係では普通に行われているはずの配慮が、ある特定の人々に対しては行われていないというのが問題なのに。

 でもきっと、それを言うと、全てを全てフラットに扱おうとするのだろう。同性愛者の抱えている問題や、社会からの扱い方、それぞれの構造的な苦悩や苦痛、そういったことを全部ないことにして、全てを全てフラットにすることが“差別がない”ということだと思われてしまうのだろう。差別をなくせば、差別がなくなる。結局そういうことしかできないのだ。

 でも、日本はゲイに寛容だし。

 昔から同性愛者はいっぱいいたもんね。

 他の国じゃ殺されたりするんだって。

 殺されないだけマシだと思え。それのどこが寛容だっていうんだろう。

 同性愛と男色の違いもわからないまま、同性愛のことを語っている。

 でも一方で、そんなもんなんだろうなあ、と、北原のことを知るまでは俺はのんびりそう思っていた。俺はカミングアウトしていないし、する気もなく、だから面倒なことにはならないから、問題は表面化しない。前々から思っていたこと。そんなことわざわざ言うことではないと思っていた。でも、北原の堂々とした姿を見ていて、違う、と思う。

 わざわざ言うことではないけれど、わざわざ隠すことではあるんだな、と。

 なんとなくだが俺の周囲の友達たちは同性愛に対して無知ではあるがそこまで否定的であるようにも見えない。俺の目が狂ってる可能性もあるけれど、それでも彼らの北原との接し方を見ていると拒絶反応はなさそうだった。たぶんだけど、俺がカミングアウトしても、そうなんだ、とだけでまとめてくれるような気がする。気がするだけだけど、そんな気がする。

 でも––––、きっと彼らはホッとするのだろう。それは絶対だとも思う。

 つまりそれが“差別がある”ということで、“差別をしている”ということなんだと思う。

 別に同性愛に限った問題ではない。ありとあらゆる差別問題の解決方法は、結局世の中が変わればあなたも自動的に変わるだろう、と、そういう期待をするしかないのだろうかと俺はつくづく思う。結局のところ。

 結局。結局。結局。

 話してわかってもらえるのは、そもそも相手がわかりたいと思っているからだ。大黒や萬屋は北原のことをわかりたいと思っているように思う。だから、そこまで北原に感情移入していない石川たちにはよくわからないのだろう。話せばわかるは幻想だ。それならとっくに世界は平和になっているはずたもの。

 俺の友達たちは、どうなんだろ?

 そう考えると、受け入れてくれる可能性の方が高いようには思う。大切な友達たちだし、信頼もしている。でもきっと、ゲイであることをカミングアウトしたら後悔の日々が始まるのだろう。“いい人”の友達たちにわかってもらえなかったら、きっと俺は絶望的な気持ちになるのだろう。あるいは北原が石川たちと付き合うように付き合うことになるのかもしれない。一般論に普遍化させて、なにもわかってないのにわかった気分でいる彼らと。“どうせこんなもんだから”と。わかってくれないことの方が普通なんだから、と。

 大事な友達たちなのに。

 子供のころから独りだった。家族には恵まれているし、友達にももちろん恵まれている。でも、二年生の夏、ネットで初めてできたゲイの友達とリアルで出会うまでずっと独りぼっちだった。

 女性とか障害者とか、いろいろなマイノリティや被差別者や社会的弱者はいるものだが、そういった他のマイノリティたちと同性愛者が決定的に異なるのは、子供のころに仲間と出会えない、というのが大きい。別にゲイは女より大変だ、と、そう言っているわけではなく。

 大好きな友達たちがいるのに、独り。

 失礼な話だとは思う。

 でも、正直な感想なのだ。

 それが俺にはどうしてもうまく説明できない。あるいは徹底的に勉強した専門家ならあっさり説明できるのかもしれない。でも俺は、勉強はしているけれど専門家じゃないからうまくなんて説明できない。もしもここの部分だけを周囲の人たちに言ったらきっとがっかりされるのだろう。じゃ、俺の存在はなに? と、そうなるのだろう。それがわかっているから、だから俺はカミングアウトしないことにする。

 あるいは勉強したり、いや、結婚のように制度の方が先にできたら、割とあっさり理解できるようになるのかもしれない。同性婚の議論や論争を見かけるたびに、制度が実態に追いついていないということをいつも思う。

 例えば、友達や親戚の誰々が同性婚をした、となったら、あっさり受け入れられるのかもしれない、と思う。もちろん嫌いなものは嫌いでいいし、受け入れられないものは受け入れられないだろう。実際俺はニンジンが嫌いだ。体にいいから食べなさい、と言われても嫌いなものは嫌いだし、理屈で納得したからって受け入れられるわけではない。でも、同性愛者のことが嫌いだ、というのはあくまでイメージで嫌ってるだけだという側面を俺はいつも感じる。別に自分たちと同じように、いまここに普通に存在しているだけ––––そう“理解”できたら、そう“理解”してくれたら、そしたら俺はだいぶ生きやすくなるような気がする。

 そんな気がする。

 北原とはずっと同じクラスだったが、まともに会話をしたことはない。それこそちょっとした挨拶ぐらいだ。でも、それでも楽しかった。挨拶する度に幸せな気持ちになった。俺と同じゲイ。そばにいるだけで、そばにいられるだけでよかった。

 それ、恋じゃねーの?

 ゲイ友達にそう言われて、そうかなあ、と思った。でも、そうかもなあ、と思った。外国に移住して、たまたま現地で日本人と出会ったら仲良くなる––––といった話と同じ程度の感情なのかもしれないが、それでも––––そう、たぶん俺は北原光のことが好きだったんだと思う。もう卒業で、大人になったいつか同窓会をする日が来るのかもしれないが、基本的には北原と会うことはもうないだろう。でも、ただ挨拶するだけの仲で、向こうは俺のことなんてなんとも思っていないだろうけれど、俺にとっては特別な出会いだった。

 北原は幸せになれるかなあ。

 俺は幸せになるよ。

 そして、みんな独りじゃないと、そう思えたらいいなあ。

 卒業式は間もなくだ。俺は第一志望に受かったし、引っ越しをする。

 大学で、自己紹介の機会があったら、カミングアウトでもしてみようかな?

 そのときのことはそのときになってみないとわからないな、と、俺は思う。そういうタイミングがやってきたら、言おうかな、ぐらいである。結局クローゼットで四年間過ごす可能性の方が大きそうだとも思う。

 でも、人生はなにがあるかわからないしなあ、物事はなるようになるんだしなあ、と、いつもにこにこしている北原光を見ていて、俺はいつもそう思うのだった。

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