10-4
ほら、だから面倒臭い話なんかするべきじゃなかったんだよ。
帰路に着く光の中で、もう一人の自分がそう言ったのを光は聞いた。
そんなことはわかっている。そんなことは、小さいときからわかっていた。
母親がいつもそうだった。女手一つで自分を育ててくれた。それは感謝している。でも、ことあるごとにお金がないお金がないと嘆く彼女が光は嫌だった。
それなら自分を産まなきゃよかったのに、そう思う。
それでもそれを言葉にすることはできない。言っても意味がないからだ。だから、光は小さいころから欲しいものをなかなか買ってもらえなかった。光とて家の経済事情は幼いなりにわかっていたから、別に高価なものをねだったことはない。ただ、漫画の本が欲しかった。それでも買ってくれるときと買ってくれないときがあった。その基準が光にはわからない。とにかく買ってくれないときはお金がないからとしか言われなかった。だから光もお金がないのだから仕方がない、そう自分に言い聞かせて納得していた。
それでも友達にはその愚痴を言った。うちは貧乏だからなんにも買ってもらえないんだよね。たかだか五百円の漫画の本を。
たかが五百円、されど五百円だよ。
そうね、そうですね。五百円は高価ですね。だからしょうがないですね。あなたは買ってもらえてますけどその件はどうなんでしょうね。あなたのお家はお金持ちなんですもんね、よかったですね。
もちろんそんなことを言葉にはできない。そんなことを言えば友達を失うことはわかっている。
だから、なにも言わない。
そうだね。
そう返すばかりだった。
あんたは家事をなんにも手伝ってくれないね。あたしが小さいころは親の手伝いをすごいしてきたものだよ。
え、そう? おれ、割とお皿洗ったり洗濯物干したりしてるつもりだけど、それはなんにもしてないのと同じなの? じゃ具体的になにをすればいいの? なにを自分はしてなくて、なにが自分には足りないの?
いまならそう言えるだろう。しかし当時はそんな風に言語化できなかった。
だから光としては母親に反発していた。ただし心の中で。いつも朝から晩まで仕事をしている彼女にそんなことは面と向かって言えない。
だから、なにも言わない。
お母さん。テストで百点取ったよ。
あらそう、よかったわね。じゃ、次も頑張ってね。
お母さん、テストであんまり成績良くなかった。
あらそう、残念だったわね。じゃ、次は頑張ってね。
あまり自分のことに興味を持っていないように光には思えた。光の喜びを喜んでくれないし、哀しみを哀しんでくれないように見えた。でも、仕方がない。
お母さんは忙しいのだから。
それでも作文にそんなことを書いてみた。自分の思いの丈を書いてみた。そしたら先生に説教された。
お母さんは一人で君を育ててくれてるんだから、そんなこと言うもんじゃないよ。もっと感謝しなさい。それから、もっとお母さんの手伝いをしなさいね。
不満は許されない。
愚痴を言うことは許されない。
言ったら余計に厳しくされる。
だから、なにも言わない。
お母さん、おれの部屋に勝手に入るなって言ってるでしょ。
あんたはいつも頑固ねえ。別に何も見てないわよ。
おれが頑固ということにしておけば、あなたは自分にもなにか問題があるんじゃないかと考えないで済むから楽ですね。
全部おれのせいにできるからいいですね。
あまり具合が良くない。とにかく日常に疲れていた。それで、保健室の先生に相談してみた。
なんだかお母さんといるのが辛いときがあって。
まあ、子どものころはそういうものよ。私もそうだったし。
そうですか。
みんな、悩んでるからね。そうだ、部屋の掃除をすれば運気が良くなるよ。
この人もおれの話に興味がない。
誰も自分の話を聞いてくれない。
だから、なにも言わない。
なにも言わないでいよう。
本当のことは、いつだって難しくて、複雑で、面倒臭いから。
だから、なにも言わないようにしよう。
中学生のとき、友達グループでカラオケに行った。トイレに行きたくなったから部屋を出る。なぜあのときスマホをそのまま置きっぱなしにしていたのかわからない。部屋に戻るとみんなの態度が直前までとは明らかに違っていた。
どうしたの?
光のスマホに着信あったけど、それ、ゲイのアプリだよね?
一瞬、時が止まった。
え、いや、あの。
前、テレビでインタビュー受けてた人のスマホ画像が出てて、そん中にゲイのアプリがあるってネットで話題だったんだよね。これ、それだと思って。
えーと。
いや、隠すことないだろ。そんなの別に隠すようなことじゃないだろ。
そうだよ。ゲイだろうがなんだろうがおれたちの友情には関係ないよ。
気にしなくていいよ。全然問題ないから。
そもそも誰が誰を好きでもいいじゃんね。男が男好きでもいいんだよ。
そうだと思う。みんなの言ってることはその通りだと思う。だからそのときは嬉しかった。
翌日、学校に行ったらみんなが知っていた。秘密にしておいてくれと言ったのに、みんなにバラした。
もっと自分らしくいようよ。
そうだよ、恋愛に性別なんて関係ないよ。
みんなもそうなんだってあっさりだったしさ。
そうだと思う。みんなの言ってることはその通りだと思う。でも、どうしても気になることがあった。
学校の中に、同性愛者が自分一人だけだとは思えない。このクラスにはおれだけかもしれない。でも、いるかもしれない。そして、他のクラスにもおれみたいなやつがいるかもしれない。
全然問題ない––––そういう結論が出たのに、どうしてそいつらはカミングアウトしないんだろう。誰が誰を好きでも関係ない。性別なんて関係ない。すべてまさにその通りだと思う。じゃ、どうして他のやつらは打ち明けないのだろう。
なぜだろう。
それを言葉にすることが光にはどうしてもできなかった。みんな優しかった。みんな朗らかな笑顔で光を受け入れた。そして、殊更に同性愛の話をすることはない。
そうか、そうだよね。同性愛だろうがなんだろうが、関係ないんだもんね。おれがゲイであることとか、おれの辛さとか、そういうの全部まるでないことにして、全部を全部フラットにすることが差別をなくすことだとあなたたちがそう思うなら、そうなのかもしれないね。
それでも差別はあるのに。
それでも、おれは生き辛いのに。
それがどう辛いのかを––––どうしてもうまく説明できないけれど。
道を歩きながら、光は大きくため息を吐いた。
おれがもっと大人になって、もっと差別や同性愛のことを勉強すれば、言葉にすることができるようになるのだろうか。それならそれで頑張ろうと思う。でも、辛さをわかってもらうのにどうしてそんなに頑張らなきゃいけないんだろう。どうしておれがそんなに頑張らなきゃいけないんだろう。
困っている側が。
「光!」
突然腕を掴まれ、光はびっくりして振り返った。そこにいるのは君尋だった。
「あ。君尋さん」
「お前、どうしたんだよ。まだ学校だろ。なに––––泣いてるんだ?」
「……え?」
自分が涙を流していることに、光は気づいていなかった。
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