9-3
期末試験の日まで和洋と千歳は君尋のマンションで光の勉強を見ることが日課になっていた。二人で勉強を教え、ある程度の時間になって夜遅くなってきて和洋が千歳を家まで送る、というのが日常になっていた。
しかし翌日が試験日であるという今日、和洋の予備校で試験があるということだったので千歳は一人で光の勉強を見ていた。「変なやつはあたしの必殺の右で」とは言うものの、女が一人で夜道を歩くことに光も和洋も不安だった。光としてはそんなに夜遅くになるまで千歳を付き合わせる気はないのだが、千歳はやる気になっていた。
その千歳のやる気というものが、先日の昼休みの乃梨子たちの指摘が発端であることなど、光たちの預かり知るところではない。
「だから、ここは正弦と余弦定理を使って……」
「ふむふむ。ふむ……?」
「もう一回説明しようか?」
「もう一回!」
光は、“かわいい”。
あるいは自分の恋愛感情は母性愛のようなものなのだろうか、と、千歳はどんどん自分の感情を客観視できるようになっていくことに気づいていた。そして、客観視できるような感情が果たして恋愛感情なのだろうかと疑問だった。
光の上手な絵。漫画。画期的な意見。それをみんなの前で堂々と話す勇気。
いつか君尋は言っていた。“なんかいいな”と思ってから好きになった理由を人は作るものだと。しかし、いまの千歳からすればとてもそんな風には思えなかった。自分は明らかにそれらの理由のもと光を好きになったとしか思えなかった。
それは恋ではなく、好意だ、と思う。
推し。
乃梨子の一言を思い出す。みんなが納得していたことを思い出す。
あるいは––––自分の恋愛は幼いのだろうかと、そう思う。
「わかった! じゃ、これこれこうなってー……どう!?」
きらきらした笑顔で答え合わせを望む光に、千歳は、この客観視が自分の恋の答え合わせなのだろうかと、まるで他人事のように思った。
「あの二人、大丈夫かなあ……」
予備校に向かう途中、和洋はなんとなく独り言を言った。
明日は期末試験だ。光が留年してしまうかどうかを決定する大事な日。その大事な日の直前に自分は光を助けてやれないことが不甲斐なかった。
それでも今日の試験はどうしても受けたかった。この試験は全国統一模試ではなく、その予備校が独自に行っている試験であり、一説によるとこの試験の出来が合否を左右するとも言われていた。むろんいままで医学部を目指していた和洋からすれば建築科に受かることはそこまで大変なことではない。しかしいつか隆太が言っていたように、試験には運もあるし、合格が確定することなどないのだ。試験の結果はあくまでも自分の自信の強化に過ぎないが、だからこそ大切なものだった。
大切なもの。
「俺の大切なものか……」
自分の将来。進路。自分が自立した生活を送り始めてから両親も心から和洋の合格を祈っている。友達もたくさんいる。好きな女の子もいる。仲間がたくさんいる。いまの和洋には素直に大切にしたいと思えるものがいっぱいある。
その中の一つが、光。
「あいつ、大丈夫かな……」
これから試験だというのに和洋の頭の中は光の留年を防ぐ方法ばかりだった。方法もなにも勉強をするしかない。赤点を取らないようにいい成績を光に取らせること。
そして、それが大切なこと。
「お、カズくん?」
と、突然声をかけられたので和洋は振り向いた。
「なんだ、真壁か」
「私らもいるよ」
亜弥と乃梨子の存在にも気づき、和洋はホッとする。
「お前らもだったな、そういや」
「そうそ。この予備校のとっておきのテストだからね。カズくんも全力でやらなきゃ」
「萬屋くんなら合格間違いなしだと思うよ」
「うん、ありがと土橋。でも、坂東も言ってただろ。試験は運の要素も強いって」
「ま、そりゃそうなんだけど、和洋にそう言われちゃうと私らとしてはねえ」
うんうん、と、乃梨子と翼はうなずく。
「なんだよ。お前らだって成績いいだろ」
「カズくんとは比べものになんないよ〜。ま、こんな風に言うと光くんがかわいそうだけどね」
和洋は光のことを思う。
あいつは大丈夫だろうか、と不安になる。
「北原くんは、学校の成績は悪い方だけど、それよりいろいろ大切なことをわかってるような気がするよ」
大切なこと。
「やっぱりゲイだから視点が変わってるのかな?」
即座に和洋は否定した。
「いや、それは違うだろう真壁。ゲイだなんだなんてあいつのプロフィールの一部に過ぎないだろ」
「う〜ん。カズくんは光くんのことすごい大切にしてるのね」
「友達だもん」
「それだけじゃなさそう、って思うのは、あたしが腐女子だからなのかしら」
確かに、君尋から兄の話を聞いて以来ずっと、光への感情移入は大きなものになっている。
光は無事だろうか。
「じゃ、ま、みんなで頑張りますか」
亜弥の言葉に翼と乃梨子は、おー、と、声を上げた。
共に声を上げなかった和洋が、三人は気になる。
「カーズくん」
「え?」
一瞬、呆けていた。
翼は呆れ顔で言う。
「ほんと、ガキね」
「なにがガキだ」
「––––わたしとしては、女の子が夜遅く一人で外出するって、怖いな、って、思う」
乃梨子の呟きに、和洋は顔を上げる。
「うん……」
「いや乃梨子。千歳には必殺の右がある」
「それはそうかもしれないけど」
いま、和洋は迷っていた。
試験を受けるか。
それとも––––。
「俺、今日のテストはパスする」
そう呟いたことを三人が理解したと悟って、すぐさま和洋は駆け出した。
三人は顔を見合わせた。
「やるね乃梨子」
「千歳が心配なのは嘘じゃないよ」
「ま、ね。和洋のやつ、北原のことがすごい気になってたね」
「あーもう、あの二人マジで付き合わないかな〜。普通にお似合いなんだけどな〜」
両手を頭の後ろで組む翼を、亜弥と乃梨子はくすくす笑う。
いつまでもこうしていられたらいいのだけれど、と、三人は思う。しかし、そうもいかない。自分たちはどんどん大人になっていって、大切なものが増えていく度に優先順位ができてくる。そうなったとき、いつまでものんびりとはしていられなくなるのだろう。最優先事項のために細かいことをいちいち気にしてはいられなくなるのだろう。それは精神衛生上はいいことなのかもしれない。でも、なにか寂しさを感じてしまうのも事実だった。そういう細かいことをいちいち考えていられる時間は、私たちにあとどれぐらい残っているのだろう。いつまで私たちはがむしゃらに日々を過ごしていけるのだろう––––三人は、なんとなく、そう思う。
それぞれの、夜だった。
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