第九話 たとえ火の中水の中

9-1

 授業中。

「ん……」

 数学の授業中、ぐっすり眠っている光に対して、仁はどうすれば光が真面目に授業を受けてくれるのだろうと悩んでいた。それも他の教科では比較的真面目に受けているそうなので、こうなると明らかに自分が舐められていると仁は思えてならない。

 そして和洋もまるで自分のことのように慌てていた。

「おい、おい北原」

 小声で呼びかけるが熟睡中の人間に小声が通じるはずもない。和洋は消しゴムを一つ、光の頭に命中させてみようと思った。

「あんっ」

 頭に消しゴムが当たったという事態でなぜ光が声を出すのかわからない。クラス中がくすくす笑い、和洋は顔を真っ赤にした。

「北原。北原っ」

「むにゃむにゃ……会長〜ダメだよう……こんなの初めて……」

 和洋はドキリとした。いま、光の夢の中の登場人物として自分が出現していることがわかり、そして光に対して何事かをしているようなのがわかり和洋は気が気でない。

「ううー……会長……ダメだよお……風船にお茶漬けなんかあげても恐竜にはならない……」

 教室中のくすくす笑いはいまや爆発寸前だった。仁も教師としてあろうことか光の見ている夢の内容が気になって授業に集中できない。

 授業が止まってしまったので、和洋はいよいよ自分の出番だと思い、立ち上がり光のもとへ進んだ。

「おい北原! 北原っ!」

 大声と丸めた教科書で頭をばんばんと叩かれ、眠たそうな瞳で光は目覚めた。

「あ、あれっ。おれの北京ダックは?」

 そして一気に爆笑の渦。

「半裸の会長にリボンをつけて待ってたのに」

 和洋の顔はもう真っ赤もいいところだった。

「北京ダックじゃない! 授業中だぞ!」

「え〜……ジン先生の言葉たちがまるで子守唄のようで……」

「じゃなくて、寝るなって言ってんの! ていうかすげー爆睡してたなお前」

「昨日遅くまで起きてたから……休めるときに休まなきゃ」

「授業中のどこが休めるときなんだよ。ていうかさっきまで起きてたはずだろ」

「ジン先生の授業は眠りやすい」

「わけがわからない」

「はいはい、お二人さん。もういいよ」はあーっ、と、わざとらしく仁は大きくため息をついた。「ぼくの授業に魅力がないんだね北原光殿」

「え、そんなことないよ。マジ魅力的だと思う。じゃなきゃこんなにぐっすり寝れないよ」

「うん……」

 と、仁はそこはかとなく大きな声で呟いた。

「こりゃ、次の期末で赤点取ったら留年だな」

 ピタッ、と、教室中の空気が止まった。光がそのセリフが自分に言われていると気がつくのに多少の時間がかかった。

「へっ」

 変な声を出し、停止する。

 仁はいつもののんびりとした笑顔とは打って変わって真剣な表情で光のもとへと近づいた。

 そして通告した。

「次の期末、赤点で、追試で落ちたら留年決定」

「え。え」

「これまでの赤点の数と追試の成績じゃあね。しょうがないと思うよ」

「え。えっ?」

「まあぼくとしてはお前さんともう一年一緒にいられるのも楽しいだろうなとは思うけども」

「え。え。え」

「とにかく頑張んなさい。もう成人おとななんだから」

 少し冷たい声で、突き放したようにそう言った仁は教壇に戻り、授業を続けます、と、いつもの仁とは思えないほどの生真面目な声で授業を続けた。


 放課後。

「いやだよ、なんでおれが留年になっちゃうんだよう〜」

 学級委員の仕事を三人でする中、泣きそうな声で光は喚いた。

「みんなと卒業したいよ〜!」

「だから頑張ろ光くん。あたし協力するから」

「ううっ、ありがとう千歳ちゃん」

「要は赤点取らなきゃいいんでしょ? 大丈夫、光くん地頭いいんだから」

「うん、うんっ……」

「でも、変だなあ」

 と呟く和洋に二人は反応した。

「なにが?」と千歳。

「だって北原、いままでの赤点って三つとかだし、それだって追試でクリアしてたわけだろ。留年になる要素ないと思うけど」スマホを検索しながら和洋は怪訝そうな顔になる。「ざっと調べてみたけど、追試の成績の悪さで留年になるなんて情報ないし。クリアすれば問題なしだし」

「ネットに書かれてることだからって正しいとは限らないし、ネットに書かれてないことだからって間違ってるとは限らないよ〜!」頭をぶんぶんと振って光は嘆く。「授業中にみんながいる前でそんな嘘吐くかね!?」

「うーん……まあ深刻なのは間違いないとは思うんだが……」

「あののほほんを体現化したようなジン先生があんな重苦しい声でさ。授業再開してしばらくは教室中陰鬱だったし。おれ居た堪れなかったよ。おれがなにしたんだよ〜」

「まるで深沢先生の授業を狙ったかのように寝てるのが悪いんだろ」

「まるでっていうかそうなんだけど」

「お前なあ」

「あー、留年なんて言ったら君尋さんにどんな顔すればいいかわかんないよ」

「お前はもう成人したんだから、後見人は必要ないんじゃなかったか?」

「そういう問題じゃない。君尋さんが頑張ってくれたおかげでいまのおれがいるんだから、留年なんて冗談じゃない」

「でも光くん、いまさらながらなんだけど、なんで理系を選んだの?」と、千歳は投げかけた。「就職組だし……君尋さんのバーに勤めるんでしょ?」

 と、当然の疑問を口にする千歳に、当然だといった調子で光は答えた。

「だって会長が理系なんだもん」

 なるほど、とうなずく千歳とは反対に和洋はややずっこけそうになった。

「自分の進路を考えろ、自分の進路を!」

「未来のことよりいまでしょ」

「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて––––」

「光くん、理系クラスに入れたぐらいだから、気休めじゃなくてほんとに頭はいいと思うんだよね」

「へっへー」

「威張るな」

「だから、ちょっと気合い入れればすぐに成績なんて上がると思うよ。あたし協力するから、だから頑張ろうよ! あたしも留年なんてされたら哀しいし」

 すらすらとそう言う千歳に、そこで和洋は、おや、と思った。さっきからの––––いや、そういえばここしばらくの間、千歳の態度はこんな感じになっている……と、やや訝しんだ。光はその変化にまるで気づいていないようだが、和洋はどこか気になっていた。

「うん! おれ、頑張る!」

「頑張ろう!」

 そして二人で右腕を挙げて、おーっ! と、叫んだ。

 そのキラキラした様子を見て、自分の考えすぎだろうか、と、和洋は思ったが、しかしどうしても気になってしまう。

 千歳の光への対応が、どこか事務的になっているような気がしていた。

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