8-5

「それにしてもあの二人は尾行がバレてないとでも本気で思ってるのだろうか」

「いくらなんでも下手すぎですよね」

「目立つもいいとこだよ。俺でも気づく」

「あたしは割と最初から気づいてました。アンティークショップの辺りから」

「すごいね。気配に敏感なんだ」

「格闘技をずっとやってて、その影響があるのかしら」

「なのかしら」

 と、二人は軽食を取りながら談笑している。そろそろ日も沈み始めるし、そろそろ解散の時間だった。

「でも千歳ちゃん、なにも買わなくてよかったの?」

「たまたま君尋さんと会うまでにもう買うものは買ったから。他にもいいのあるかなーと思って、あちこち付き合わせてごめんなさい」

「ううん。俺も普段行かない店に行かせてくれて楽しかったよ」

「ありがとうございます」と、千歳は烏龍茶を飲んだ。「……」

 どこか物憂げな表情を見抜き、君尋は訊ねた。

「なにか悩んでるのかな?」

「え?」

「物憂げだから」

 千歳はちょっと悩んだ。

「物憂げ……なのかな。うーん……」

「よかったら相談してみて。光のことかい?」

 光を思い浮かべる。と同時に和洋のことも思い出す。

 ちょっと、辛かった。

 誰かに話を聞いてもらいたいとはずっと思っていたので、やがて、ゆっくりと千歳は話し始めた。

「……あたし、なんか、いやなやつになってきちゃってるような気がして」

「それはなぜ?」

「……光くんの恋は結局叶わないから、そしたらあたしにもチャンスがあるのかなって思うと、光くんと萬屋くんが結ばれなくてラッキーだった、みたいな……」

「光が男の子が好きだってことは知ってるよね」

「だからもちろん、あたしの恋だって叶わないんですけど。だから、ラッキーもなにもないんですけど。それはわかってるんですけど」

 君尋は目を細めた。

「思春期の複雑さを目の当たりにして、俺はどこか懐かしい気持ちになってしまう」

 くす、と、千歳は笑った。

「思春期って関係あるんですか?」

「あると思うよ。ある程度大人になってくると、そういう悩みがかわいいって思うようになるんだよ」君尋はちょっと慌てた。「もちろん、悩んでる本人にとっては世界の終わりにも等しい悩みなんだけどね」

「世界の終わりか……」

 千歳は、ふう、と、微かにため息をついた。

「あたしの恋はそろそろ終わらせた方がいいのかな、って気にもなってきて」

「好きでいるのが、辛い?」

 千歳はうなずく。

「人としてはすごくいい人で、光くんすごくいい子だから、友達として付き合った方がむしろ毎日楽しくなるんだろうなって」

「なるほど」

「でも、好きなものは好きで」

「そうだねえ……まあ、さっきの話だけど、君ぐらいの年ごろだといろいろなことが気になるもので、いろいろなことを悩むものだよ」

「大人になるとそうならなくなります?」

「悩まなくなるというか、悩む余裕がなくなってくるんだよね」

 余裕。

 千歳は黙って君尋の話を聞く。

「日々の生活に追われてくるから、悩みがもっとリアルなものになってくるんだね。それより金を稼がなきゃ、ちゃんと食べてちゃんと睡眠時間を確保しなきゃっていうことを悩む比重の方がデカくなるってこと。例えば、俺も働いていて嫌な気持ちになることはある。だけど、その度に転職していったらキリがないし、生活ができないよね。どこかで諦めたり、または受け入れたりする必要がある。そうなったとき、“ちょっと嫌だな”ぐらいの嫌悪感は無視するしかなくなる。あるいは共存していくしかなくなる。“だってしょうがないじゃない”ってね」

「……」

「そうなると目の前のいまやるべきことに集中するしかなくなる。だから……いや、アラサーのおっさんがこんなことを言っちゃいけないのかもしれないけど、政治とか選挙とか、そういうことが二の次になってしまうね。もちろん本人のキャパシティにもよるけれど」

「……」

「悩んでいる余裕がないわけだから、そういう難しいことを考えるだけの余裕もなくなっちゃう。あるいは自分の生活とか、例えば家族とか、大切なものを守らなければならないからこそ“ちょっとしたこと”を悩む余裕がなくなると言ってもいい。もしかしたらそれはちょっとしたことなどではない大したことなのかもしれないんだけど、まあ、そういうこと自体を悩む余裕がなくなるわけだ。それで結果的に“しょうがないよね人生って”って思うようになって、さあ今日も頑張ろう……と、なる」

 同性愛とか差別とか。

 難しくて、複雑で、面倒臭い話。

 忙しいから、悩む余裕がなくなる。

 仕事に家事に育児に勉強に。

 みんな大変な日常を過ごしているから。

 あるいは––––大切なものを守るために?

 君尋は、千歳の目をまっすぐ見ながら微笑んだ。

「俺は、若いころの苦労は買ってでもしろ、とは思わないけど、それでもやっぱり若いころにいっぱいいろいろなことを経験していたっていうのは将来世の中でうまくやっていくための武器になると思うんだ」

「……あたしのいまの悩みも、大人になったらなにかに役立ったりするんでしょうか?」

「直接的に役立つことはないかもしれないけど、“だってしょうがないじゃない”って思うための材料にはなると思うよ。もちろん、社会人になってすぐに発揮されるとは限らないけどね。なんていうか転職を繰り返したり、ニートになったりして、その先でようやくその気づきのときが訪れるのかもしれない。だからそのために、若いころにいろいろなことを経験していた、いろいろなことに悩んでいたっていうのは必ず武器になると俺は思う。ちょっとしたことって周りに言われるような悩みを悩む余裕がある時期はむしろ大切にしておいた方がいいよ。いつか、あのときはあんなことで悩んでたなあ、でもいまはそんなことで悩んでる余裕はないなあ、でもしょうがないよなあ。そう思えるから」

「武器か……」

「もっとも、その武器をどう活かすか、どう戦うかは人それぞれだよ。人によっては、そうだな、もう煩わしい人間関係の会社員なんか辞めちゃおう、諦めて小説家に俺はなる! ……っていう選択としてその武器が発揮されるのかもしれない」

「小説家なんて、そんなあっさり叶う夢じゃないと思いますけど」

「そうだね。でも、なんだかんだ夢があるのはいいことなんだよ。優先順位がブレずに済むからね。そして……夢っていうのは結局、悩みの中からしか生まれないんじゃないか、って、俺はなんとなくそう思うんだ」

 ふと千歳は、そういえばこの人も光のことが好きだったんだよな、ということを思い出した。

 この人もしょうがないと思っているのだろうか。

 自分の想いを?

 いや。少なくとも自分とは違いこの人には可能性がある。光と付き合える可能性がある。

 それならなにをしょうがないと思っているのだろう。なにをなんのためにしょうがないと思っているのだろう。

 ぼんやりと千歳は思った。あるいはそれは大切なものを守るために。あるいは––––いつの日か夢を叶えるために。

 そのために、若いころのいろいろな経験、というものを武器として、日々戦っているのだろうか。

 “だってしょうがないじゃない”と思うために。

「いまのあたしの最優先事項はなんなんだろう……」

 またため息をついた千歳を、彼女がなにを考えているのか知ってか知らずか、君尋はふふ、と、微笑んだ。

「青春はいいねえ」


 やがてファミレスを出ていく二人を当然和洋たちは追いかける。隠れながら歩きながら、和洋と光は会話をする。

「どこ行くのかな」

「神のみぞ知る……」

「お前、なんか楽しそうだな」

「だって、どうせあの二人に何事かがあるはずないもん」

 ゲイだろうがなんだろうが、男と女が二人きりでいる、ということ。

 ふとさっき考えたことを想起し、和洋はなんだか自分のやっていることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。途中から終始楽天的な光が参加したことでよりその思いが強くなってきている。

 男と女が二人きりでいると……というのが、あまりにも下卑た発想のように思えてくる。つまり自分が下卑た人間のように思えてくる。

 そういうことになる、のは、から––––。

 はあ、と、和洋がため息をついたので、光は、ん、と気がつく。

「そのため息の意味は?」

 光の質問に、どう答えたらいいのだろう、と、和洋はしばし逡巡した。

「なんか疲れてきちゃった」

「おいおいおーい」

「俺はなんだか、自分が男であるとか、異性愛者であるとか、つまり社会の多数派であることが、この社会のよくないものを引き寄せているというか、この社会によくないものを引き寄せているというか、なんかそんな風に思う」

「ずいぶん難しいこと考えてたね」

「お前はいわゆるマイノリティなわけだろ。性的マイノリティ」

「それが?」

「大黒も女なわけだし……なんか俺は、お前らと比べて世の中に当たり前にあることをと思いすぎているんじゃないか、とか」

「でも、おれだってゲイとしてはマイノリティだけど男としてはマジョリティだし。なにかの病気とか障害があるわけでもなければ、日本に住んでる日本人だし。その辺ではマジョリティだし。例えば女の千歳ちゃんの見ているものがおれには見えてないっていうのは普通にあると思うよ」

「……うーむ……それは、そう、だとは、思うんだが」

「それをいうなら千歳ちゃんだってそうだよ。女としてはマイノリティだけどシスジェンダーとしてはマジョリティなわけで。かつ会長だって目が悪いって点じゃマイノリティでしょ。会長が特別マジョリティってことはないんじゃないの」

「––––ああ、まあ」

「ていうか話変わるかもだけどそもそも他人同士なんだから、わかり合えないって思ってしまった方がむしろわかり合えるんじゃないのっておれはいつも思うね。あなたとわたしはわかり合えるはずだ、だって同性愛者同士なのだから、なんてそんな風に思ってると絶対鬱になるよ。それぞれ観測している世界が違うんだもん」

 ふと和洋は光を見た。光はいつもにこにこしている。

「お前はなんか、親とか学校の先生とかではない、大人の知り合いがたくさんいて、いいなあ。同い年なのに俺よりよっぽど社会がどうとか考えられてるし」

 うーん、と、光は唸る。

「でもま、なんにでもメリットデメリットはあると思うよ。おれは個人的に、ゲイワールドに染まりたいとはあんま思わないし」

「ふうん。なんで?」

「なんていうのかな、もうちょっと俯瞰で世界を見ていたいよね。例えば––––“立場のある大人がときどきとんでもない馬鹿になるのは、それが人間の本質だからである”とか」

「本質ねえ」

「本質的であることと幼稚であることは矛盾しないもの。それより––––どうやらあの二人の目的地はこの公園だったようだ」

 和洋も、自分たちがいまから公園に入るということにようやく気がついたようだった。

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