7-7

 コンコン、と、ノックの音が聞こえたので、光と千歳は同時にドアを見る。

「光。もういいよ」君尋だった。「話は終わったから」

「わかった。千歳ちゃんも」

「うん」

 と言って二人は部屋を出る。君尋は複雑そうな表情でいた。

「ほんとに話済んだの?」

「俺の話はね。あとは会長くんがうまく処理できればいいんだけど」

「そっか」

「萬屋くんは」

「せっかくだから気分転換に光の勉強でも見てやってくれたら、なんて言ってみたら、そうですね、ってうなずいてたよ」

「おっし」

 と、光は居間へと進んで行った。千歳と君尋も後を追う。

「会長ー」

 と声をかけると、なんだか疲れたような顔で和洋は振り返った。

「ありがとう。話は全部聞かせてもらったから」と、立ち上がる。「せっかくだから北原の宿題でもみようかなと」

「いいの? なんか疲れてるっぽいけど」

「……変な言い方かもしれないけど、なかなか兄貴らしいエピソードだったよ」

「ふうん。そっか」

「じゃ、勉強するか」

「おっけ。結構進んだよー」

「それならいいけど」

 和洋は歩き出す。君尋とすれ違って、軽く頭を下げる。

「それじゃ、もう少しお邪魔します」

「いいよ。光のバイトまでまだ相当あるからね」

「ありがと北原」

「全然。じゃ、君尋さん、また後でねー」

「はいよ。宿題頑張れ」

 そして君尋はソファに向かう。

 どこか陰のある背中だった。

 光の部屋に三人集合し、どこまでなにをやった? という和洋の質問に、とりあえず昨日の分と合わせて国語と英語は終わらせた、と、自慢げに言う光に和洋は苦笑する。

「お前、ほんとに文系なんだな」

「昔は漫画家になりたかったんだよね」

「いまからなればいい」

 と、間髪入れずにそう言った和洋に二人は怪訝そうな顔をする。

「萬屋くんにしては迷いがないね」

 千歳の発言に和洋は苦笑した。

「俺、そんなに迷ってばっかりに見える?」

「見える見える。いつもなんか弱いし」

「そんな」

「楽しい話……ではなかったんでしょ」光は恐る恐る訊ねた。「その割には、というか」

「ああ」

 うなずき、和洋は数学の教科書を開いた。

「なんとなく……自分の将来のことを考えてさ」

「どういう文脈で?」

「そうだな。もうちょっとはっちゃけてもいいんじゃないかというか」

「?」

 光と千歳は顔を見合わせた。

 和洋は続ける。

「結局兄貴は、他人にわかってもらうことばっかりで、わかってくれないことにイライラしてたんだろうなと」

「それは、普通じゃない?」

「いや」千歳の疑問に和洋はゆっくり言葉を編んでいった。「わかってくれないことだって普通にあるだろ。生きてれば」

「まあそうね」

「……俺も、わかってくれないならわかってくれないで、その上で進んでいかなきゃいけないような気がして。みんなにわかってもらおうなんてするから、わかってくれなかったら傷つくんだよ。そんなの、そもそもわかってくれること自体が奇跡みたいなもんだからな。それも考え方の違う人にわかってもらうなんて」

「そうだね。おれもそれはそう思う。で、お兄さんの場合、それはゲイとしてそういうことがあったってこと?」

 和洋は、うん、と、答える。

「深沢先生も言ってただろ。個人が集まって社会になるんじゃなくて、社会には社会の論理があるって」

「おれたちもさっきそういう話してたよ」

「ゲイであることを社会が受け入れることはあっても、個人で受け入れられない人たちはどうしてもいるんだと思う」

「だろうね」特に諦めているわけではない様子で光はあっけらかんと答える。「無理なものは無理だよそりゃ」

「もちろん、そんなことをいちいち考えなきゃいけないこと自体が差別があるって証拠なわけだけど。なんで北原や、兄貴がそんなに頑張らなきゃいけないんだっていうのは、思う」

「でも」と、千歳は考えながら言った。「いつか、そうじゃなくなるかもしれないじゃない」

「そうだな。でもそれはいまじゃない––––いま、そうなってないってことは、つまり、いままさに差別があるって証拠なわけだよな」

 和洋はため息をついた。

「社会、って、なんなんだろう」

「世界とは少し違うんだろうね」ふと思いついたように光は言った。「なんとなくなんだけど」

「社会と世界の違いか……」ぼんやりと和洋は呟いた。「もしかしたら、その二つの違いをわかることができれば、もう少し、世の中はより良くなるような気がする。そんな気がする……」

 しばし沈黙が走った。

 差別ってなんだろう。

 社会ってなんだろう。

 世界ってなんだろう。

 そんな風に、それはあまりにも漠然としていたが、三人は同じように考え込んでしまった。だが、答えの出る問題ではないし、いや、いつか答えが出る問題なのかもしれないが、しかしそれはいまではない。そしてそれを自分たちが辿り着くことはないような気がしていた。少なくともいまの自分たちが辿り着いてもその答えはリアルではないような気がした。

 なんといっても自分たちはまだ高校生の子どもなのだから。

「ところで会長のやりたいことってなに? お医者さんじゃないの?」

 沈黙を切り裂き光は訊ねた。和洋はやや照れ臭そうな顔で、答えようか答えまいかちょっと迷っている様子だった。光も千歳も期待しながら和洋の答えを待った。

 そして、和洋は意を決したように言った。言葉に出すことで自分が本気で将来を考えていることを表せるような気がして。

「建築家になりたいんだ」

「建築家?」と、二人は同時に声を上げる。

「うん。子どものころからずっと憧れてた」

「ああ、だから萬屋くん、初めてこのマンションに来たときなんか批評してたのね」

 和洋はちょっと申し訳なさそうな表情で千歳の感想にゆっくりと応えた。

「高そうな建物を見るとつい癖で……」

「へえ〜。まあこの部屋は事故物件だから他の部屋よりは安いみたいだけどね」

 千歳と和洋はぎょっとした。

「じ、事故物件?」

「そう。殺人事件があったんだって。ちなみに現場はこの部屋ね」

 びっくりした二人は部屋中を見渡した。

「お前、怖くないの?」

「おれは幽霊がいるなら会ってみたいって思うタイプだから」

「ああ、そういう考え方をすればいいのか」

 千歳の言葉に、光と和洋は、ん? と頭に疑問符が浮かぶ。

「嫌なことで遊ぶっていうか」

「あ〜。千歳ちゃん、いま画期的なこと言ったね」

 千歳は、うん、と、うなずいた。

「やっぱり世の中、嫌なことばっかりじゃない。嫌な人だらけじゃない。でも、そういう理不尽で遊ぼう、って余裕があれば、ちょっとだけかもしれないけど乗り越えられるような気がするんだよね」

「面白くなってきやがった、みたいな?」

「そうそう。そう言うとほんとに面白くなってくるから不思議だよね」

「いいね! 千歳ちゃん」

「ありがと〜」

 笑い合う光と千歳に、和洋は微笑む。

 好きな人と––––そして、友達がいるということは、幸せなことだ、と、そう思いながら。

「さて、それじゃ勉強スタートだ。明日までに提出だからな。頑張れよ」

「おっけー。ま、わかんなきゃわかんないでパスしちゃえばいいんだから宿題なんて気楽だよね」

「いや、わかれよ。お前、頭が悪いわけじゃないんだから面倒臭がらずに」

「聞いた千歳ちゃん? 会長、おれが頭いいって」

「よかったねー光くん」

「……じゃ、ま、どれからいきますか」

 そして三人は勉強を始める。光の宿題の手伝いをすることに、千歳も、和洋も、ちっとも苦労は感じていなかった。

 和洋は、思う。

 このまま三人でずっといられたらいいな、と。


 EPISODE:7

 the Person is the Person to the Last

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