7-6

 隆道の酒と煙草の量がだんだん増えていっていることに気づかない君尋と修平ではない。

「おい、もう飲むなよ」

 と、声をかける君尋に、努めて冷静に振る舞おうと隆道は反応する。

「酔いたいんだ」

「たかだか他のやつらと話が通じなかったってだけだろ」

「なんで通じないのかわからない……だって、大人になってからは楽に生きられるようになったかもしれないけど、子どもの頃は、みんな同じように辛かったはずだろ」

「そうかもしれないけど、だからってみんなが隆道と同じようにものを考えてるわけじゃないよ」と、修平は半ばおろおろしながら言った。「人それぞれいろいろあるんだから」

「だからって、自分の絶望や怒りをどうしてそんなに簡単に扱えるのかわからない」

 さらにハイボールを飲もうとする隆道の手を君尋は止める。

「絶望とか、怒ってるとか、そういうのも人それぞれだろ。お前はすごい怒ってるかもしれないけど、他のやつらは、少なくともお前ほどには怒ってないんだよ」

「なんでだ。なんで怒らないんだ」

「それもこれも諦めてるから––––いや違う」君尋は、答える。「世の中いろんな人がいるんだから」

「わからない。俺にはわからないよ」

 君尋の静止を振り解き隆道はジョッキを一気飲みする。

「子どもを作らないでいると、生物学的に間違ってるとかいうのに、じゃあ作っていいのかっていうと、それは子どもがかわいそうだと言う。日向も日陰も生きていけないじゃないか。俺たち、結局“どちらかといえば生まれてこなければよかった存在”なわけだ」

 隆道は自嘲する。君尋と修平には隆道の言っていることにすごく共感できる。しかし他のゲイ仲間は必ずしもそうではない。“しょうがねえじゃん”、その一言で済ませる者がいる。それが隆道には

「俺はジェフと結婚したいんだよな」

「ジェフはいいやつだもんな」

「でも、じゃ、結婚式をするかっていえば、俺は怖くてできない。とかいうと“結局、お前自身が、自分がゲイであることを恥ずかしいと思っているからだ”とかいう。違うんじゃないか。結婚式、同性結婚式を怖れるのは、俺に勇気や覚悟がないからじゃなくて、だからだろ。なんで結婚式をするのに勇気や覚悟がいるんだ。俺たちにそんなものを求める世間が、社会の方が間違ってるんだろ。なんでみんなそれに怒らないんだ。なんでみんな絶望しないんだ。人権をなんだと思ってるんだ」

 君尋と修平は顔を見合わせる。アルフの他の客たちは“また、隆道が意識の高いことを言っている”と遠巻きに見ていた。それもあまりにもどうでもよさそうに、彼らはハッテン場やいまの彼氏や新しい出会い系サイトの話題を和気藹々としている。カラオケでは昭和の女性アイドルの歌を歌っている者がおり、なぜか隆道はその歌声を聴いているとイライラしてきた。なぜイライラしているのか自分でもよくわからない。いや––––みんな、とんでもない絶体絶命の状況下にいるはずなのに呑気にカラオケなんてしていることが

 そしてその発想自体、隆道が自己嫌悪と罪悪感を抱くものになっている。

「人権っていうのが理解できないやつもそりゃいちゃうよ」なんとかして隆道の気分を落ち着かせたいと君尋は必死だった。「日本の場合、反差別の文脈でしか“人権”って言葉を使ってこなかった、それが失敗だった––––隆道がそう言ってたんだろ」

「そうだ。そうだよ」

「俺と修平はお前の気持ち、わかってるよ。だからとにかく今日は帰って寝よう。うちに来ればいい。修平も。三人でなんか美味いもんでも食おう。そして寝よう」

「そうだよ隆道。今日はもう帰ろう」

 隆道の肩を揺する修平の手を、うるさそうに振り払った。

「結局、人権だってビジネスなんだ。あそこのやつらもそうだった」

 半ばもう少しで涙を流しそうな、あまりにも苦しい表情で必死に言葉を絞り出す。

「ゲイがより良く生きられるように活動してるはずなのに、いつの間にか経済の話になってたり––––なんなんだ。あいつらはなんなんだ。俺はなんなんだ」

「おかしなことじゃないだろ? だっていまの世の中、資本主義ってそういうもんだろ。例えば“医療”だって“介護”だって、“秋刀魚”だって“桜の木”だって、それこそ“人権”だって、資本主義の世の中じゃ何もかもビジネスになるもんだろ。それがいいとか悪いとかじゃなくて、資本主義社会っていうのがそういう構造になってしまっている––––って、これもお前が前言ってたことじゃないか。お前だってちゃんとわかってるんだろ」

「そうだよ。でも、だからこそ、それならせめてより良いものが報われて、悪いものは損でしかない世の中になるべきだろ」

「それは目指すべき地平であって、いまそうじゃないなら、いまはまだそうできない世の中なんだよ」

「それが俺にはわからない。何もかもわからない」

 そこでアルフの扉が開き、ジェフがやってきた。隆道の彼氏だ。

「隆道、どした?」

 脳天気に言ってくるジェフが君尋と修平は気に入らない。

 ジェフは隆道の話に肯定するばかりで、あとはセックスに至るのがいつものパターンらしかった。悩みをきちんと受け入れていない––––と当時の君尋は思っていたが、いまとなってはそうでもないと思う。なぜなら隆道に必要なものは“休息”なのだから。こんなにパニックになっているからこそ、一旦セックスを行うしかなく、そして、休む、落ち着かせる……というプロセスをジェフが計画していたのかどうかはわからない。だが、ジェフは真剣な愛情でもって隆道と触れ合っていた。それがわかるからこそ当時の君尋にはジェフの解決方法が理解できなかった。

 いまならわかる。あれこれ悩む隆道に、一つ一つ言葉で返すのは間違っていた。まず休ませなければならなかったのだ。心の疲れは脳の疲れだ。まず脳を休ませなければならなかったのに、それなのに自分たちは隆道の話に応答していた。だからそれが––––結果的にはよくなかったんだろう、と、いまの君尋にはそう思えてならない。

 君尋は思う。例えば修平の職場の人間関係の悩みにしたって、嫌なものは嫌で、相手にもなにか意図や事情があるのではないかなどと考えるのは落ち着いてからするべきだ、と。

「ああ、ジェフ」

「隆道。疲れてるね。ぼくんとこおいで。楽にさせてあげよう」

「ああ、ああジェフ、そうする」

 疲れ果てた笑顔でそう応える隆道に君尋は気が気ではない。

「おい隆道、大丈夫か?」

「大丈夫だ。それじゃ俺はこれで。またな」

 もう話を聞いてもらう必要はない、そう言わんばかりに隆道は恋人と店を出ていく。

 ……あるいは、ジェフの役割を自分が担えていたかもしれない。いまの君尋は、そう思う。そしてそれが善なる発想なのか、それとも、邪悪な発想なのか、よくわからなかった。


 しばらくそんな日々が続いていた。どうしてこんなことになったのだろうと、君尋はいつもこうなったスタート地点を思い返してみるが、しかしこれといって決定的な出来事があって隆道が悩み始めたようには思えなかった。ただ、ゆっくりと、だんだんと病んでいったように思う。最初、自分たちと和気藹々と話せていたのがかえってよくなかったのだろうか。それと同じ調子で他のゲイたちと関わり始めたが、隆道の苦悩や目標を共感できた者はあまりいなかった。だから当然、中にはいた。しかし、なぜ話してもわからない者たちが話してもわからないのか隆道にはわからなかった。隆道は“話せばわかる”と思っていたから。

 それならわかってくれる人たちだけにわかってもらえればそれでよかったはずなのに、隆道はそれは違うと思っていた。それでは世の中は変わらないと思っていた。まず自分たち自身が変わることだと隆道は思っていた。だからこそ、隆道は周囲から疎ましがられ始めた。

 それでも自分たちはいつも一緒にいたのに––––結局、それでは足りなかったのだろう。それだけではあまりにも足りなかったのだろう。要するに、隆道は理想主義者だった。でも、人は人それぞれ違う。人は人それぞれ考えていることや悩み、人生の課題が違う。ゲイだからってみんながみんな同じことを考えているわけではない。その大前提を隆道は納得できなかった。いや、理解はしていたからこそ、どうしても納得できなかった。だから自分のことを疎ましいと思うゲイたちの気持ちを理解しようとしていた。そうすれば次のステップへと進めるはずだと思っていた。だから全てがうまくいかなかった。

 だから、全てがうまくいかなくなった。

 そして––––結局、隆道はジェフと共にサンフランシスコへと発った。その後のことはわからない。その時点でもう連絡が取れなくなってしまったから。

「俺の話は以上だよ」

 そう、これが君尋の話せる隆道の過去の全てだった。君尋は頭を抱えるが、しかし兄の性格をよく知っている和洋である。はあ、と、大きくため息をつく。

 しばらく二人は無言になった。

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