7-3

「じゃあ、最近あった出来事とか」

 隆道の発言に、君尋はまずい、と思ったが時すでに遅し。修平しゅうへいは眼をキラキラさせて身を乗り出した。

「俺の最近の出来事といえば、会社の上司がウザいことだな」

 またか、と、君尋は頭を抱える。

「お前さ、その愚痴いい加減にしろよ。こっちは何度も何度も同じ話聞かされて正直ウザくなってきた」

「でも君尋、結局答えてくれるもんな。俺の話に興味あるんだろ」

「いやだってノーリアクションでいるわけにはいかないだろ……」君尋は隆道を見る。隆道は興味深い、という顔をしていて、これでまた君尋は頭を抱えた。「隆道くん、こいつの愚痴なんか聞いたってメリットないよ」

「そうかな?」と、隆道はハイボールを飲む。「我らの仲が深まるかもしれない」

「そんな文学的に……」

「じゃ聞いてよ隆道くん。俺の切ない話を」

 このやり取りが始まる直前、君尋と修平は隆道と出会った。どこかびくびくしながらゲイバー「アルフ」にやってきた隆道を、修平は直感的に“新入り”だと思い声をかけたのだ。すると新宿二丁目に来るのも初めてだという。ネットで調べてみたら昔好きだった海外ドラマと同じ店名だということで隆道はここにやってきたようだ。そしてちょっと話をしてみたら実に気が合い、そして三人が同い年であることがわかりさらに意気投合する。そして互いの自己紹介が終わったあと一瞬の沈黙が走ったものだから、隆道が二人に近況報告について質問してみたのであった。

「会社の上司がさ」

 というわけで修平は話し始める。ちなみに宮崎みやざき修平はいまは光の友達でもあり、会社員を勤める傍らゼウスで店子としても活動している。

 君尋は仕方がない、と、諦めることにした。

「俺んとこの会社の上司がすげーウザいの。出会った頃は“なんかこのおっさん一言多いな”ってぐらいだったんだけど、今日になって、いや違う、こいつ気に入ってる社員にはそういう対応だけどそうでもない社員にはそうでもない対応してることが判明した」

「ふむふむ」と、隆道はうなずく。「それから?」

「なにかと態度がキツいっていうか––––いや、態度がキツいっていうか、俺たち赤の他人だよね? 最低限の距離感って絶対じゃね? って俺は思うわけよ」

「そうだと思う」

 いちいちうなずかなくてもいいのに、と君尋は黙ってビールを飲む。

 笑顔に真剣な表情を混ぜながら隆道は言った。

「大変だね」

「そう! そうなのよ! 俺は大変なのよ! 他の人たちはいい人たちだからこそ、ってわかるよね俺の苦悩?」

「わかるよ。職場の人間関係でキツくなるのはキツいよね」

「そうなんだよそうなんだよ!」

 はあ、と、君尋はため息を吐いた。

「お前さ、それもっと上の上司に相談しないの?」

「そんなことして本人に伝わったらさすがに辞めなきゃいけねーじゃん」

「いや、ある人に関する悩みを相談して、それをそのまま本人にバラすような上司のいる職場なんかむしろ辞めろよ」

「でもでも仕事自体は楽しいんだよな〜。ほんと仕事自体は楽しいのよ。他の社員さんはみんないい人たちばっかりだしさ。ほんと合わないのはそのおっさんだけなわけ。ね、隆道くん、俺はどうすればいいと思う?」

 修平に訊ねられ、隆道は、うん、と、しばし熟考した。修平は期待で胸がいっぱいだったし、君尋はもう好きにしてろとつまみのチーズを食べる。

「俺が思うに」

 と、隆道は答え始めた。

「より上の上司に相談するべきかと」

 修平は期待外れだとがっくり肩を落とし、今度は君尋が眼をキラキラさせた。

「よくぞ言ってくれた隆道くん」

「ただ、やるべきことというか、考えるべきことは山ほどあるとは思う」

 ん? と、修平は隆道に興味を持った。

「例えば?」

「例えば、そのおっさんの普段やってることに対する修平くんのやってることがそのおっさんに影響を与えてるって可能性があるんじゃないかなと思う」

「えーと」恐る恐る修平は訊ねる。「要はお互い様だ、と」

「お互い様っていう言葉が正しいのかわからないけど、人間関係って相互関係で一方的な関係じゃないと思うんだよね。他人には他人の都合があるから、他人を変えるんじゃなくて自分が変わること、ってよく言われると思うけど、一見真理かのようで実は人間関係の本質がわかってないわけだよ」

 喋りながら隆道のテンションがどんどん高くなっていっているのが二人にはわかった。言語化していく作業が楽しいようだった。二人は黙って隆道の言葉を聞く。

「例えば修平くん、そのおっさんになにか注意されたとき、すいませんすいません、とかって言ってない?」

「え〜と、そ〜の、あ〜う〜、言ってる」

「修平くんがそのおっさんの態度を気に入ってないように、そのおっさんもいつも低姿勢で謝る君が気に入ってないって可能性もあると思うんだよね。要するにお互いに相手に不満がある」

「むう……それはまあ、そうかも、とは思うが……」

「––––あるいはそのおっさんは良かれと思ってそういう対応を取っているのかもしれない。厳しく育てることで一人前になるだろう。俺もそのようにして育てられてきたから同じようにすればいいはずだ。まあ成功体験に支配されちゃってるわけだ」

「あー、そういう感じ」

「あるいは普段、家庭がうまくいってないとか。家族とうまくいってないとか。あるいはいつも便秘で悩まされているとか」

「むむむ」

「あるいは……君が気になる、とか」

「へ?」

「君に恋心があって、それを隠している。好きな子をついいじめちゃう系男子だな」

 ぶっ、と、修平は吹き出した。

「それは、ない!」

「可能性の話としてはゼロとは言えない。それにそう考えられたらむしろそのおっさんがかわいそうに思えてくるかもしれないよ。気持ちに応えてあげられなくてごめんなさいって。それで、あるいはその他の可能性として––––」

「ちょっと待ってちょっと待って隆道くん」と、修平は両手を大袈裟に振って隆道を制した。「どれもこれも可能性の話ばっかじゃんか」

「そりゃあそうだよ。そのおっさんの真意は計り知れないんだもの」

「いや、俺がすいませんすいません言ってるのがムカつくっていうのはなかなかうなずけたけど、それにしても絶対ただ俺のことが本能的に気に入らないから嫌がらせしてきてるだけだと思う」

「嫌いなら嫌いでそれもなにかわけがある。修平くんが自分に似ていると思っているのかもしれないし、昔の自分に似ていると思っているのかもしれないし」

「それも、ない!」

「わからないよ。なんと言っても相手の真意は計り知れないんだもの」

「え、じゃ、結局、俺としてはどうすりゃいいわけ?」

「もっと上の上司に相談だね」

「やっぱそれかあ〜」

「俺としては正直に言えばそのおっさんが別にそこまで悪い人みたいには思えないけど、修平くんが気になってる時点でそれはほとんど関係ないわけで……」

 隆道は改めて姿勢を正した。

「考えてみなよ。それでより良い結果になれば万々歳だし、現状維持が続くならプラマイゼロだし、もし君尋くんが言うように悪い結果になるのであればその会社は構造自体がまずいよ。そんなことになったら本気で辞めるべきだよ」

「仕事は楽しいんだよね……他の人たちはいい人たちだし」

「少なくとも、修平くんがその、もっと上の上司とそこそこ親しいんだったら、期待できると思うけど」

「まあ係長は親切な人だけどさ……」

 どうやらなんだかんだ言ってこれが最終的な結論になりそうだったので、君尋はホッとした。

「いいね隆道くん。実に理性的だ」

「それはどうも君尋くん」

「修平、聞いただろ? とりあえず実践できそうなのは、口癖・すいませんをやめること。そしたら案外うまくいくかもしれないしさ」

「そんなうまくいくかねえ」

 と、そこで君尋は隆道と向き合った。

「––––でもさっき、成功体験がどうとか言ったけど」

 ん? と、隆道と修平は顔を見合わせた。

「あんまり他人の歴史を否定するのはやめた方がいいと思うぜ」

 隆道は、ふむ、と、指を咥えた。君尋は続ける。

「その人にはその人の人生だったり、過去だったり、歴史だったりがあるわけだろ。なんか、お前の成功体験なんかクソだ、っていうのは、なんか気になった」

「しかし事実として社会に問題があるということはあるだろ? 別にその人自体に問題があるわけじゃない。ただそういう環境に生まれついて育ってしまったからそうなってしまっただけだ」

「育ってっていうのがなあ」君尋はチーズを手に取った。「だからリベラルは嫌われるんだよね。お前の人生は間違ってるとかいうから」

 隆道は目を丸くする。

 そして、微笑む。

「ああ、君尋くんは折衷派なのだな」

「隆道くんは主流派って感じ」

「俺は俺は?」

「修平は穏健派だ」

「ふんふん。なるほど」と、そこで隆道はにんまりと笑い軽く手を叩いた。「じゃ、タイプバラバラのトリオを結成しようじゃないか」

 いいね! と修平は手をパチパチパチと叩く。君尋は、こりゃ青春漫画のノリだな、と思いつつ、悪い気はしなかった。なぜなら。

 ハイボールを飲む隆道を見る。

 気になる。

 ––––気になり始めたのは、アルフに入ってきた隆道の姿を確認してからだ。声をかけてくれた修平に君尋は感謝しかなかった。

 君に恋心があって、それを隠している。好きな子をついいじめちゃう系男子だな。

 さっきの隆道の言葉を思い出す。そして自分の反応を。リベラルがどうとか派閥がどうとか、一歩間違えれば喧嘩になりそうな発言。

 つい言ってしまった。

 好きな子をついいじめちゃう系男子だな。

 これが君尋の人生における、生まれて初めての一目惚れであった。

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