6-4

 学校は終わったが、和洋はなんとなく図書室で推理小説を読んでいた。光は君尋にテキーラの件がバレたらしく説教を受けなければならないからといって帰ってしまったし、千歳も早く寝たいからといって去ってしまった。よっぽど寝不足だったのだろう、と、和洋は千歳を労った。

「……」

 図書室にいるのは和洋だけだった。

 静かな昼下がりだった。

 ふう、と、ため息をつく。ロングホームルーム直前の千歳の様子を思い出す。和洋にはなんとなく想像がつく。おそらく自分と同じように君尋の言葉に感銘を受け、光のためになればと思って同性愛関連の本を読んだのだろう。それが和洋にはどこか嬉しかった。その嬉しさと共に、和洋は昨日見た夢を思い出す。

「……兄貴」

 和洋が十歳のとき、当時二十歳だった和洋の兄・隆道が家出した。

 当時は理由がわからなかった。年齢が離れた兄のことが和洋は大好きだった。その兄がもう家に帰ってこないと知ったのはいつのころだっただろう。気がついたときは、もう“帰ってこない”ことを理解していた。その理由を両親が話しているのを盗み聞きし、なおさら理由がわからなかった。なぜそれで隆道が家出をすることになるのか、和洋にはよくわからなかった。

 だが両親にとっても隆道の家出はショックだったようだった。しかし事件性があるわけでもない成人済みの人間がいなくなったことで警察が捜査してくれることはない。家の中は重い雰囲気で満ちていた。隆道がいなくなったことも、家庭の雰囲気が重苦しいことも、当時の和洋にとってかなりのダメージだった。

 それが十一歳、小学五年生のときの運動会で状況は変わっていった。アンカーを務めることになった和洋は猛練習の甲斐あって見事一番を取った。それもビリの状態から追い上げて一番を取ったのだ。両親はものすごく喜んでくれた。頭を撫でられた。よく頑張ったな、と、満面の笑みだった。隆道がいなくなって以来、こんなに晴れやかな両親の笑顔を見たことはなかった。

 嬉しかった。

 だからもっと笑ってほしい。

 そしたら隆道ともまた会えるんじゃないか。

 それなら、もっと、頑張ろう。

 一番を取ったら、親は喜んでくれる。笑ってくれる。家の中の重苦しいムードも消えてなくなる。

 だから、一番を取ろう。

 漢字を書けるようになろう。

 皆勤賞を取ろう。

 百点を取ろう。

 陸上大会で優勝しよう。

 模試で一番を取ろう。

 そうすれば。そうすれば。そうすれば。

「よーろずーやくんっ!」

 突然後頭部を叩かれ、和洋は衝撃で我に帰った。なんだなんだと後ろを振り返るとそこに帰宅したはずの千歳がいた。頭をさすりながら和洋は問う。

「大黒、なんで」

「忘れ物したから取りに来たのよ」

「いやそうじゃなくて、なんで殴るんだよ」

「だって何度呼んでも気づいてくれないんだもん」

「だからって殴ることないだろ……マジで痛え……」

「手加減はしたんだけどな」

「信じられない」

「どうしたの? ぼんやりしちゃって。白昼夢でも見てた?」

 自分の過去を想起していたとはなんとなく恥ずかしい気持ちで言えなかった。まあ適当に答えればいいだろうと思い、和洋はこんな風に答えた。

「えーと……第三次世界大戦の夢を」

「大惨事だね」

 ぎょっとして千歳の方を見ると、明後日の方向に首を向けた。少しの間を置いて、和洋はくすっと笑った。

「あ、ウケた?」

「大黒は元気だなと思って」

「そりゃ元気が最優先よ。なんかもうここまできたら夜まで起きてようと思っている」

「そうか」

 こういうところで俺はお前に惚れたんだ、と、和洋は思う。

 高校に入ってすぐ好きになった。千歳は一見がさつだがその実すごく女の子らしい。付き合っていた当時の亜弥のキャラ設定や、例えば乃梨子の女の子らしさとは少し違うのは盛大にギャップがあるからだ。実際、千歳のことをよくわかっているのは友達グループのメンバーぐらいだろう。だが“女の子らしい”というのが具体的にどういうところでそう思うのかは和洋にもよくわかっていない。確かに気遣いができるし些細なところできめ細やかだ。だが、それが“男”には絶対にない要素かといえばそうとも思えない。しかし“男”の気遣いの仕方は、千歳はしていない。なんとなく言葉にできるのはそれだけだった。

 そこで和洋は思う。光は“男らしく”はないが、だからといって“女らしい”わけでもなく、かといって“中性的”なわけでもない。それは親密になる前からなんとなく感じていたことだった。ただのクラスメイトに過ぎなかった光だが、ことあるごとにそこに注目していたのも確かだった。そしていま気づいているのは、それは全て兄のことを考えるきっかけになっていたからだということだった。

 ふう、と、和洋はため息をついた。

「ほんとどうしたの? なんかあったら聞くけど」

「いや、その。家族のことで」話せる範囲までなら話しても大丈夫だろうと思った。「ちょっと思うところがあって」

「言ってみ」

「俺、医者になりたいだろ」

「萬屋くんの願望なんか知らないよ」

「いやだから、とにかく、医学部志望なのは知ってるだろ。話してるし」

「ああ、わかった。親がお医者さんだから、それで、お前もわたしの後を継げみたいなのがストレスなんだな」

「いや、そうじゃない。親は別に俺を後継ぎにしたいだなんて思ってないんだ。俺が勝手に目指してるだけで、親はむしろ自分が医者だからって同じ道に進んでくれなんて思ってないって言ってくれてる」

「いい親御さんじゃない」

「まあ、そうなんだけど」

「要するに進路を悩み始めてるわけだ」

「まあ、そういう悩みになるのかな……」自分の話ばかりではつまらない。「大黒はどうなんだよ」

「あたしの進路? あたしは家政科に推薦で行くつもりだけど」

「それって、なんか理由があったりするの?」

「理由っていうか、––––ああ、うん、まあ……あたしも親関係の進路で」

「?」

 そこで千歳はようやく自分が立ち話をしていることに気づき、和洋の隣に座った。

「あたしが父子家庭なのは知ってるでしょ」

「うん。それで、家に一人にさせるのは忍びないから、知り合いの、空手家だっけ? 格闘家の稽古を受けて、それで筋がいいから格闘家仲間にいろいろ教え込まれた……だったよな」

「よく覚えてるね」

「いやなかなか衝撃だったから」

「しかしここで話すのはそこの部分ではない」千歳は頭を掻いた。「お父さん、再婚するかもしれなかったのを、あたしが台無しにしたの」

 これは踏み込んでもいいことなのだろうかと和洋は身構える。そんな様子の和洋を特に気にもせず千歳は続けた。

「うちに女の人が来るようになって、料理とか洗濯とかするようになったのね。でもあたしにはそれが気に入らなかったの。あたしが料理も洗濯も掃除も、家のこと全部やってるのにどうして他の人が必要なのかわからなくて。当時はあたしがお父さんと結婚するつもりだったからすごい嫉妬してたわけだよね。だからすごいキツい態度でその人と接してたし、お父さんにもすごい文句言って……そしたら、いつの間にかその人とお父さん、別れたみたいで。––––それがすごく申し訳ないなって」

 千歳はため息をつく。

「それからもうちょっと経って、あたしにちょっと気になる男の子ができて––––そしたらお父さんたちの気持ちがわかってきた、っていうか。お父さんの選んだ人なら、あたし応援してあげなきゃいけなかったのになーってずっと後悔してて。お父さんはそれからもう再婚なんて言わなくなった」

「うん」

「だから、なんていうか、あの人と、それから死んじゃったお母さんの分もお父さんのために頑張りたいと思って。家事だと料理が一番好きだから、料理が上手になったら喜んでくれるかなーみたいな。なんかこんがらがってる感じしちゃうかもだけど」

「幼心に思ったことなら、そりゃこんがらがってるさ」

「そうだね。それもあって、いまは、料理をきちんと勉強したいって思ってて。だからもっと勉強したいなーって思って、だったら家政科かなって」

「なるほど」

「そうそう」

 しばし沈黙が走った。

「なにこの沈黙」

「いや。なんとなく。なんて言えばいいのかわからなくて」

「あたしは言うこと全部言ったからいいけど」

「よく言うことが全部言えるな。大黒のそういうところびっくりするよ」

「なんで?」

「だって––––普通は、自分のことをいいように言うんじゃないのか。わかんないけど」

「うーん。それはなんていうか」千歳はちょっと首を傾けた。「いいように言って伝わるかっていったら、なんか伝わらない気がするのよね。そういうのって、あ、こいついま自分のいいように言ってるなって思われると思う。それで伝わらない」

「なるほど……」今朝のことを思う。「だから、事故っても自分のいいようには言わないの、すごいと思うよ。自分が注意してなかったって言っててさ」

「もっと褒めなさい」

「でも––––」

「なに? 褒めてから貶すつもり」

「違うよ。なんか、北原もそんな感じだなって思って」

「光くんがなに?」

「だから––––あいつも、自分のいいようには言わないだろ。あいつの場合、なんとなく自罰的な感じもするけど」

「そうだねえ……社会がそうさせるのかな」

「社会、社会ね……」

 そこでふと和洋はロング直前の千歳と隆太や乃梨子たちの噛み合わない話を思い出す。

「大黒、さっき、外国人運転手の偏見の話を坂東たちにしてたけど、ああいうのはやめた方がいいと思うよ」

「なんで? 萬屋くんも外人は危険派?」

「そうじゃないけど、向こうは“なんか嫌だ”っていうのが先にあるわけだから、いくら理詰めでいっても仕方がないよ」

「ああ……まあね」

 和洋は、隆道がよく言っていたことを思い出した。

「世界は、論理じゃなくて感情で動いてるから……それをそういうものだと理解しないと、いくら論理的説明をしてもうまくいかない……みたいな」

「誰かのセリフ?」

「兄貴の」

「お兄さん?」

 うん、と、うなずいた。

「実は北原が、ちょっと兄貴に似てるんだ。だからつい感情移入しちまう。思い出しちゃう」

「ふーん、なるほどなるほど」

 そううなずきながら、そういう理由で光のことを気にするのだろうか、と千歳はふと思った。よっぽど似ているのだろうか。だとすれば和洋とその兄はあまり似てはいないのだろう、そう思った。

「ところで兄弟がいたんだね」

「うん。別に隠してたわけじゃないけど」

「家出でもしたの?」

 和洋は目を丸くした。

「よくわかるな」

「“なんかあった”んだろうなって」

「うん。まあ……」

「そこは言わなくていいよ。“なんかあった”んだろうし」

「そうしてくれると助かる」

 ふふ、と、二人は笑い合う。

 ––––千歳と親密に接するようになって、改めて思う。こうやって人の話を真剣に聞いてくれるところで、そして追求されたくないところはそれ以上踏み込んでこないところで、そして、人の話をいったん全部受け入れてくれるところで、俺はお前に惚れたんだ、と。その様子は亜弥と翼の喧嘩の仲裁にも発揮されていた。いつもこの子を見ていた。危機対応に取り組む千歳をどんどん好きになっていった。だが果たしてそれが“女の子らしい”のかどうかは、いよいよわからなかった。

 結局、他に適切な言葉が見当たらないから、そう表現しているだけなのかもしれないな、と思う。あるいは––––例えば光の話の聞き方と、なにか決定的な違いがあるのかもしれない。だとすればそれは。

 和洋は、心の中でため息をつく。

 そんなの、“性別”以外の何があるんだ––––と。

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