6-3
光と和洋が急いでいるのと同じように千歳も急いでいた。駅に向かいひたすら走る。千歳の足はかなり速いが、寝不足の身では本領発揮は難しかった。
「遅くなっちゃった。ずっと読んでたもんな」
最近、千歳は図書館でLGBT関連の本を借りてやたらと読んでいた。以前君尋に言われたことが心に強く残っている。知識として知っているだけのことでも、光が困っていたときに少なくとも話ぐらいは聞けるようになりたいとずっと思っていたのだ。
この夏休みでかなりの量の本を読んだ。宿題をしたりみんなで遊んだり、家事をしたり軽めのトレーニングをしたりする中で千歳にとって新しい日々の目標ができたのはとてもよかった。
読書の中、千歳がはっきりと理解できたのは同性愛の問題は単に恋愛やセックスに関する問題ではないということだった。というよりむしろ恋愛やセックスの問題が人間社会においてとてつもなく巨大な問題であるということを理解することができた。だが世の中の人たちは“そこ”にまず気づいていない。光と出会ってからなんとなく気にはなっていたのだが、テレビやネット番組などでLGBTが扱われるとき、別のテーマではそれまでしっかり話ができていた有識者たちがこと同性愛の問題になると光の日常とはおよそ関係のなさそうなおかしなことばかり言い出す、ということがなぜなのかもいまの千歳にはわかるような気がする。要するに、恋愛やセックスに関わることだから自分にも語る資格があると思ってしまうのだ。実際には何冊も本を読んだり、つまり専門的な勉強が必要なことであるはずで、有識者たちも他のテーマではそれがわかっているが同性愛に関してはそれがわかっていない。それほど恋愛というものは自分たちの社会を構成する上で最も重要な要素であり、その一方でそれほどのことだとは思っていないからだと、いまの千歳にはそう思える。
他にもいろいろな気づきがあったが、それにしてもまだ本を読んだだけだ。自分自身きちんとした勉強をしているとはとても思っていない。それでも、この知識が役に立てばいいと思う。そう、光がゲイであることで困っている、というのは“ゲイであることで困っている”のではなく“社会のゲイに対する扱いに困っている”ということが理解できた千歳は、いつも自分自身を鼓舞するために世の中は自分次第だと唱えてきたがこれはそんな領域の話ではないと思う。とにかく難しい話で、“一言で”語ることのできるような容易い話ではないことが理解できた。おそらく千歳にとってはそれが最大の収穫だった。
そして昨日もずっと本を読んでいて、気がついたら午前三時になっていた。推薦入学を目指している千歳は普段そこまで学校の勉強は頑張っていないし、もともと早寝早起きの千歳だから明らかに睡眠不足だった。それでも今日は始業式。朝、ホームルームのあと始業式を迎え、そしてロングホームルームののち掃除をして、帰る。いまはなんとかギリギリ始業式には間に合うだろう、というところだった。とにかく急がなければならない。そして寝不足の身体で全速力で走り続け、そして曲がり角を曲がろうとしたら、そこでなかなかの速度の自動車が––––。
「あ––––」
やがて千歳の全ての世界がスローモーションになり––––。
「おはよー」
そして結局始業式には間に合わず、千歳はロングホームルームのため仁を待っている教室にやってきた。光と和洋はなんとか始業式には間に合っていた。
「おはよう千歳。遅刻だぞ」と、亜弥。「珍しいね遅刻なんて」
「ほんとだったら間に合うはずだったんだけど、ちょっと事故っちゃって」
「ええっ!」
グループのみんなは全員びっくりした。
「いや、怪我とかはないんだけどね」
「大丈夫? 千歳ちゃん」
「うん、ありがと光くん。全然大丈夫。ていうかあたしのせいなの、寝不足で注意不足で走ってたからうっかりしちゃって」
「それ、ちゃんと警察に電話したか?」
「萬屋くんならそう言うだろうなとは思ったけどしなかった」
「なんで?」
「お父さんに心配かけたくないの」
「出たなファザコン」と、翼は半分冗談半分心配の表情で言った。「でも事故でしょ? ぶつけられたとか……ではないっぽいけど……」
「咄嗟に一回転した」
千歳の言葉がよくわからず、面々の頭に疑問符が浮かぶ。
「車の、ボンネット? 前の方に手を当てて、そのまま車の上をくるって回って無事着陸したの」
「まさかそんな」光は信じられなかった。「そんな中国雑技団のようなことが」
「中国じゃなかったっぽいけど、ラテン系っていうのかな、外国人の運転だったのよね。それで、『オー! ミラクルガール!』とかってすごい興奮してて、一緒に写真撮ったりサインねだられたり大変だった」
「すげえな大黒。外人に写真撮られるとかそれ悪用されたらヤバくないか」
「いや、悪用されたら事故ったことバレちゃうからしないでしょ。それより坂東くん」と、千歳は隆太に向き合った。「外国の人だから危険、とかってちょっと偏見だと思うよ」
千歳からすれば、夏休みを利用して読んだLGBT関連書籍から学んだ指摘だったが、隆太にはなにを言われているのかよくわからない。
「偏見っていうか、怖くないの?」
「日本人相手と同じようには怖かったよ」
「いやなんていうか……実際には日本人じゃなかったわけだし」
「片言だったけどいい人だったよ。笑顔だったし」
「う〜ん、犯罪に巻き込まれなきゃいいけど」
「日本人相手と同じようにはそういう不安もあるよ」
「いや日本人相手だったらもっとちゃんとするだろ。警察に電話とか」
「確かに向こうは法律がよくわかってなかったっぽいけど、警察に連絡しないのはあたしの判断だから別にいいの」
「どうしたの千歳? なんか意地になってるみたい」
「意地?」乃梨子の疑問に千歳は目を丸くした。「どの辺でそう思うの?」
「だって、普通心配になるでしょう。外国の人の車で事故に遭って写真撮られるって」
「いやだから日本人相手と同じようには心配だよ。それが外国の人だからってあたしはなにも思わない」
「なんか大変なことになってるね、千歳」翼がひそひそ声で亜弥に言う。「外国人の友達でもできたのかな」
「私はなにも知らないけど……二人はなんか知ってる?」
そのとき、光はどこか千歳に期待しているような瞳で、和洋はどこか千歳を讃美しているような瞳をしているのを見て、亜弥の言葉にあまり反応していない二人を訝しんだ。
「おーい。北原。和洋」
と呼んだら光が嬉しそうな顔をした。
「北原和洋かあ。萬屋光とどっちがいいかな」
「おい」
「苗字の仕組みもそのうち変わったりするのだろうか」
「なんで俺がお前の苗字になるんだよ」
「やっぱりなんだかんだロマンがあるでしょ。結婚して同じ苗字になるのって」
「あ、光くんは夫婦別姓派じゃないんだ」
翼のちょっと悩ましげな様子の質問に光は答える。
「いや、おれは一緒の苗字になりたいけど他の人が別々がいいって言うならそうさせてあげればいいのにって思う派」
「ああなるほど。多様性って感じだね」
「そうそう。世界は多様なの」
「だからあなたたちも多様にできてるから、ちょっとこの話もうやめた方がいいんじゃない?」翼は乃梨子の肩をポンと叩いた。「なんかもやもやしてるっぽいのはわかるけど」
乃梨子も隆太も理路整然と答える千歳にどこか不完全燃焼だったが、翼の助け舟に救われた気分になった。千歳もどうしてもわかってほしいと思っているわけではない。これも差別や偏見が一言では語れない難しいテーマであることを理解していたからだった。
「そうだね。ごめん、来て早々」
「ううん。疲れてるのは千歳なのにこっちこそごめん」
「この場合、俺も謝んなきゃダメ?」
「いや、大丈夫だと思うよ」と、光が隆太に声をかけた。「別に喧嘩してたわけじゃないんだし」
「ああ、うん。まあ、そうか。そうだな」
そうして隆太も不完全燃焼だったが気を取り直したようだった。
「でもいいね。夏休み明けからエキサイティングな出来事があって。やっぱ千歳は小説のネタになるわ〜」
「あたしをネタにしないでって言ってるでしょ」
「あたしと関わった以上、ネタにされるのは諦めてもらうほかない」
完全に話題が変わる流れになっていた。光は翼に問いかける。
「翼の夢はBL作家だったね」
「そうそ。でも、外資系に勤めたいのも夢だけど」
「ああ、小説家だけじゃ食べていけないから」
「ううん、そうした方が楽に書けそうだから」
「楽?」翼の言葉を光は訝しんだ。「単純に執筆時間がなくなるから、大変そうだけど……」
この質問に対する翼の回答はいつも同じだった。
「だからさ、専業作家になったら部屋に閉じ籠って書き続けなきゃいけないでしょ。つまり全身全霊で想像力を働かせなければいけないわけでしょ。それってなんだか面倒臭いのよ。それより、別に仕事じゃなくてもいいんだけど、強制的に外に出てればなにかしら心が動く出来事があるわけで、そしたらそんなに想像しなくても書けるわけだよね。この世界は無限のネタに溢れている。まあ売れっ子になって連載十本とかになったらそのときのことはそのとき考えるけどね」
もう何度も答えてきたことなので、すらすらと説明する翼に、光は、なるほど、とうなずいた。
「すごい考えてるね」
「光くんだって漫画家になればいいのに。あたし光くんのガッツリ描いた話読みたいんだけど」
光の絵は上手だった。千歳が恋に落ちたきっかけになった特技である。ただ光としては真剣に漫画を描いたことはない。
「漫画家ねえ……漫画描くのは好きなんだけど。好きな話を好きなように描いてたいからなー」
「ああ、それじゃ仕事には向かないね。仕事ってなったらやらなきゃいけないこともやらなきゃいけないもんね」
「そうそ。おれのバイトのように」
「それ上司に相談した方がいいと思うよ〜。前から言ってるけど。理解はされてるみたいだけど、なにを怖れているの? 同居人の紹介だからって怖れることはないのよ」
「いや、その、なんていうか、本人に変な風に伝わってこじれたら、やだし」
「そんな下手をするような上司の店ならマジで辞めた方がいいと思うよ。みんなそう思わない?」
全員に問いかけ、みんなうんうんとうなずく。
和洋は言った。
「お前だって、穏やかに働きたいだろ。こんな言い方だとお前に寄ってないように聞こえるかもだけど、そのおばさんだって何か事情があるのかもしれないし」
「事情〜ねえ〜」
「やっぱり、上司に相談するべきだと思うよ、あたしも」と、千歳は心配そうに光に投げかける。「いくら愚痴でストレス解消っていっても、仕事に行く度に愚痴ってるからよっぽど大変なんだろうなって」そこで千歳は慌てた。「愚痴るのは全然いいんだけどね」
それはもちろん千歳の本音だろう、とは思ったが、しかし光の脳内ではどうしても愚痴られて迷惑であるといったように聞こえてしまう。千歳は「愚痴るのはほんと愚痴ってくれていいんだけど」と言うし、それが百パーセントの真意だとは思う。だが、そのときになって光は初めてこの問題は解決しなければならない問題なのではないかという発想が浮かんだ。やっぱり、仕事のあとで友達たちに愚痴をひたすら言い続けるのは、それは友達たちというよりも自分のためにならないのではないかと思ったのだった。
「うん」と、光は、ゆっくりと口を動かす。「じゃあ、言ってみるよ。その方が、いい方向に進むかもしれないし……」
「職場の人間関係のトラブルを解決できないような上司の店なら、辞めたとしても津山さんだって気を悪くしないさ」
和洋は光にちょっとだけ微笑みかけた。
千歳も、うん、と微笑む。
「とにかく、動いてみようよ」
二人のちょっとした微笑みが最大の栄養剤だった。いかにも嬉しそうな顔で、光は、うん、うん、とうなずく。
千歳は読んだ本の内容を思い出す。性的指向は流動的で、自分の意思で決定できるものではない––––それなら、もしかしたら自分の方をいつか見てくれるかもしれない。だから、願ってみよう––––そう思った。
しかしそれは他人の性的指向をどうにかしようと頑張ることではないことも、もちろん千歳はちゃんと理解していた。
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