第四話 じゃじゃ馬ならし

4-1

「––––バイトの方はどう?」

「いい感じだよー。仕事自体はね」

「というと?」

「人間関係がめんどくさい」

「ああ、そういうのってやっぱあるんだ」

 朝、三人は会話しながら登校していた。待ち合わせをしているわけではないが割といつも光と千歳は途中で合流することが多い。そして和洋は今日陸上部の朝練が休みで、たまたま出会ったものだから三人揃って学校へと向かっていた。

「おれの愚痴聞いてくれる〜?」

「喜んで」と、千歳は笑った。「話して落ち着くなら」

「うん。朝の新聞配達はそんなんでもないんだよね。おっさんとかあんちゃんとかが厳しいんだけど、なんだかんだ気にかけてくれるし優しいし。問題は夜の皿洗いなんだよね〜」

「ちっちゃい料亭だったね」

「そう。ウェイトレスのおばさんで性格悪いのがいるの。仕事は皿洗いだけしてるわけじゃなくて他のこともやってるんだけど、最初のころなんか『誰でもできる簡単な仕事ですからこれこれをやってください』みたいに言われてさ。なんかムカつくんだよねマジで。あとなんかおれがジョークっぽいこと言って他の店員さんが笑ってたら『そんなに面白くないけど』とかわざわざ言うの。ほんといや」

「へえ〜。もっと仲良くすればいいのにね」

「ほんとだよ。仲良くって別にお友達になりましょうとかじゃなくて、職場の人間としてってことだけどさ〜。自分が空気悪くしてるって自覚ないんだよねそのおばさん。まあおれも二年近く働いてるからもう慣れてはきたけどさ。でも“慣れたから大丈夫”ってもちろん“できればやめてほしい”って意味なわけでさ。まあ他の人たちがいい人たちだから救われてるけど、あーあのババアさえいなきゃな〜とどうしても思っちゃう」

 いつになく饒舌な光に二人はちょっと驚いた。どうやら結構なストレスが溜まっているようである。家に帰れば君尋に愚痴をこぼしているのであろうが、自分は自分で聞いてあげたいと千歳は思った。

 正直な感想としては、そのウェイトレスがそこまで光自身に興味を持っているとは思えないし、確かにそういった振る舞いは褒められたことではないものの攻撃をされているわけではないのなら許容範囲の発言のような気も二人はする。しかし、仕事の場でダイレクトに言われるとなるとおそらく話は別なのだろう。千歳も和洋も、おそらく自分だったら光よりうまくやれそうな気がする。その一方で、学校で合わない人間がいるのと職場で合わない人間がいるのではかなりの違いがあるのだろうと二人は思った。しかしなんといっても二年近く勤められているわけだから光が無能なわけではない。それもこれも初期のころに君尋が熱心に話を聞いてやったからなんだろうな、と思う。

「おれ、ナメられやすいみたいでさ。そのおばさんだって他の人たちとはうまくやってるのね。おれだけがうまくやれてないの。もっとも上司があの二人は合わないってわかってくれてるから、だからほんとあのババア以外はいい人なんだよね」

「最初のころからそうだったの?」

「うん、そう。ていうかそもそも初対面の瞬間からおれの方にあのババアに違和感あったんだよね。違和感って大切よマジで。本能的に、あ、この人とは極力近づきすぎないようにというか、仲良くしすぎないようにしなきゃみたいな。他の人たちは最初からいい人たちだったけど、右も左もわかんないころはやっぱりおれってここにいちゃいけないのかな……みたいに思うことはしょっちゅうあったよ。仕事終わってお疲れ様っすとか笑顔で言われてもその日のそのあんちゃんの一言一言がいちいち気になるみたいな〜。いやいいあんちゃんたちなんだけどさ、ここはやっぱおれの気にしすぎの領域なわけで。でもやっぱ、気にしちゃうわけよ」

 新聞配達や料亭の皿洗いという仕事に構造的な問題があるようには思えなかったので、これは単に、働くのは大変だ、ということなのだろう、と二人は思う。

 それでも、少なくともその“気にしすぎ”という点に関しては、おそらく自分ならうまくやれるような気がする、と、改めて二人はそう思った。

「でもま〜おれも? 結構? マジで働かなきゃいけないから頭使うわけさ。うまくやるためにはどのようにすればよいのだろうみたいな」

 聞けば光はもともと一人暮らしで、越境入学してきたそうだ。もう入学当初からアルバイトはしていたそうだが、すぐに母親が死亡し、そして君尋と暮らすようになり、生活全般を見てくれているので自分も金を稼がなければならないから頑張って働いている、と光は以前説明していた。その事情を聞き、現在の楽天的な光とかつての周囲に埋没しながら生活していた光がリンクする。やっぱりいろいろ複雑な日々を過ごしてきたのだろう、と思う。

「まあ愚痴ってるとキリがないからこの辺でやめとくとして」

「え、別にいいよ〜いつまでも愚痴ってても」

「いやはや。でも、千歳ちゃんと会長だったら、こういう場合どうする? 職場で合わない人がいるとかいうとき」

 二人はそう訊ねられ、少し考える。

 とりあえず和洋はこう答えた。

「俺は仕事ってしたことないからなあ。いま働いてるお前にアドバイスしたって意味がないと思うけど」

 うん、と、千歳もうなずく。

 光は、それはそうかもしれないけど、と言ったのち、更に言葉を紡いだ。

「なんとな〜くのイメージでさ。やなこと言ってくるとか、とにかく合わないっていうやつとどう付き合うか〜みたいな。なんとな〜くのイメージで」

「イメージねえ」と、和洋はしばし考え込み、やがて答えてみた。「俺だったら、なんとなく、もうちょっとうまくやれそうな気がする」

 光は、興味深い、といった顔をした。

「あ、そう? どの辺で?」

「俺はずっと陸上で体育会系だったから、怒られるというか……ストレス耐性が強い方なんじゃないのかなと自分では思うんだよな。だからいやな目に遭うのに慣れてるっていうか……」

「あ〜……」

 和洋のその回答に、光は深くうなずいていた。

 しかし和洋は慌てた。

「でも、やっぱり実際に働くってなったらやっぱり違ってくると思うよ。俺はまだ仕事なんてしたことないし、やっぱり、お前の愚痴を聞くことはできるけどアドバイスができる身分じゃないと思う」

「いやでも、それはわかる気がする」うんうん、と、光はうなずいた。「おれは文化系だもんな〜」

 おれは文化系。そこから自分の恋が始まったことを思い出し、千歳は心の中で微笑んだ。

 そうか、あの春からもう二年以上経つ。もう夏が近づいている。

 光ともっと関わっていればよかったなあ、と、千歳はいつも後悔していた。光はどこか取っ付きづらかったし、自分は自分で亜弥たちのことで精一杯だったから––––というのはしょせん言い訳なのだろうと思う。もちろん片想いの相手だ。千歳も緊張してなかなか話しかけるタイミングがなかったというのも事実だ。しかし、だからといって二年間もおよそただのクラスメイトとしてだけ接してきたことは、このいまのいつも楽しそうにしている光を見ていると、もったいないことをしたなあ、とどうしても後悔してしまう。

 それでも、いまはこうやって一緒にいる。出かけることもそうだし、お喋りをしながら登校するぐらいの仲にはなっている。そのときはそのとき必要なことだったからそうしていたのだろう、そうなっていたのだろう、と、そう思うように務めることにはしていた。

「じゃ、千歳ちゃんも、おれはいやな目に遭ってるって思ってるけど、やっぱストレス耐性強いからおれよりは平気みたいな感じ?」

「え、あたし?」物思いに耽っている中、突然自分に話を振られたのでしばらく戸惑った。「あたしもたぶん耐性は強い方かと思うけど……」

「だよね〜。体育のときとか体育祭のときとか、千歳ちゃんすごいもんね。会長もすごいけど千歳ちゃんもすごい」と、光はがっくりうなだれた。「やっぱストレス耐性は強いに越したことはないかあ。そうね、攻撃されてるわけじゃないなら、嫌なことっていってもそれぐらいの目に遭うぐらいなら、強い人なら乗り越えられるんだろうな〜」

「お前、乗り越えられてるだろ。ずっと勤めてるんだから」

 やや強めの口調でそう言った和洋に、光は少したじろいだ。

「それはそうなんだけど〜」

「お前が感じたことがお前の感じたことの全てだろ。お前が嫌な目に遭ったっていうなら、お前は大変なんだよ。それが事実そのものだろ。それに俺も大黒も、確かにストレス慣れはしてるかもしれないけど実際に働いたことはないんだし、働いてない俺たちが働いてるお前にアドバイスなんかしたって机上の空論だ。俺だって、仕事をするようになったら、絶対いまのお前と同じように絶対悩むんだよ。だから、お前は頑張ってるんだからそれでいいんだよ」

 まずい、と、千歳は思う。相変わらずこの男は無防備だ。何の意図があるのか知らないが光に対して優しすぎる。気持ちに応えてあげられるわけではないのに熱心すぎる。これでは、もっと好きになってしまうではないか。このいまの光の瞳のキラキラ具合はどうだ。他に適切な言い方が見当たらないがこれではまさに恋する乙女ではないか。

 心の中で、はあ、と、千歳はため息を吐いた。光のことを諦める要素はいくつもある。光はゲイだし、光は和洋に夢中だ。そして––––おそらく、光の和洋への想いとくらべれば、自分の光への想いはそこまでではないのではないかと思う。二年前の春、確かに恋に落ちて、ずっと好きでいた。だからその気持ちがいまも続いている。客観的に考えようと思えばいくらでも自分の恋愛感情を客観視できる。そんなことができる時点で自分は光に自分が思っているほど本気ではないのではないのだろうかといつも思う。

 しかし、それでも好きなのだ。

 好きなものは、仕方がない。

 ––––だが一方で、これは単なる執着にすぎないのではないだろうか、とも、思ってしまう。

「ありがと会長! おれ元気になってきたよ!」

 千歳の葛藤など露ほども知らず、光はその場でくるくると回転した。

 と思ったら前方からやってきた三人組の男たちとぶつかった。

「いって」

 およそ痛みなど感じていないだろうに一人の男がそう言った。振り返った光は、一瞬で面倒な事態に陥ったことを自覚した。

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