3-5
辺りはだいぶ黄昏てきた。再び電車に揺られながら四人は四人ともそれぞれ全員残念そうにしていた。しかし仁はその一方これで帰れるとほっとしている様子もあり、いよいよ仁の真意がよくわからなくなっていた。光はこれからすぐにアルバイトだったが気になることが多くもやもやしていた。
「ジン先生ー。ちょっと考えれば他の可能性を考えられたと思うんだよねーおれ。お店に入らなくても君尋さんを呼ぶとかさ……」
「往生際が悪いぞい北原。先生の言うことが聞けないのかい?」
「それ、AVでよく聞くセリフだ」
「アダルトビデオを観ているのをいちいち説教はしない。どうせインターネットの世の中なんだから」
「はあ、残念。ジン先生に楽しいゲイライフを送ってほしかったのに」
そう、それが仁を二丁目に誘った光の真意だった。だが、仁はどこか遠くを見るような目をした。その様子を見て、光はちょっと聞いてみようと思った。
「ジン先生、もっとゲイライフ楽しもうと思わないの? 友達も二人しかいなくて、彼氏ができたこともないんでしょ」
「ぼくはいいんだ。いまの生活の、世界の危機に陥る可能性があるぐらいなら、いまの幸せな日々を守るよ」
「それはまあ……わかるけど」だが、光は更に突っ込んだ。「でもでも、もうちょっとなんか、楽しんでもいいと思う。なんでゲイに生まれちゃったんだろうとかじゃなくて、せっかくゲイに生まれたんだからゲイであることを楽しもうみたいな」
「いや。ぼくはいまの世界を守る」
さっきと同じ、真剣な眼差しだった。
「なんで?」
「少なくともいまのぼくには必要ないからだ」
ばっさりと言った。
「そうなの?」
うん、と、うなずく。
「ぼくはそんなに自分がゲイであることにこだわっていないんだ。まあ、隠さなきゃいけない時点でそんなのは嘘だろうと言われればそれまでだけど、本当だ。だからクローゼットでいることで特に困ってはいない。だからこのまま誰にもカミングアウトすることなく死ぬことができたらいいと思っている」
「そこまで抵抗があるのはなぜですか?」
和洋が質問した。なんだかその答えをどうしても聞きたいといった態度に三人には見えた。
仁は答える。
「特に理由はないんだ。ただ、いま幸せなら、いま以上の幸せを求めていないというだけだよ」
「恋愛をしたいとは思わないんですか?」
「人生や生活の優先順位で恋愛はそんなに上位にないんだ」
翼と同じことを言っている。だが、翼がそれを言ったときはあっさり納得できたが、仁にはどこか納得できない三人がそこにいた。
和洋の問いかけは続く。
「それは、諦めているんですか?」
「いいや。だから、本当に困ってない、というだけなんだよ」
「でも、“嘘を吐いている”のに“困ってない”というのは、詭弁な気がします」
和洋の更なる追求に千歳と光はやや驚いていた。それだけ和洋はこの問題に関心があるということが伺え、二人は仁と和洋のやりとりを聞き続けることにした。
「確かにそれはそうだね。でも、ぼくが言いたいのは、それ以外では特に困ってない、ということだ」
「困ってないって、それは嘘でしょう」
「困ってないというのは、ぼく自身が、ということだよ」仁はとにかく丁寧な説明を心がける。「ゲイとしてだけ考えれば困ることはもちろんある。それで、ゲイであることで世間様に迎合するほどぼくは自分次第で人生を乗り越えられるとは思っていないよ」
「ですから、本来だったらそんなことを考える必要はなかったわけじゃないですか」
「やけに気にかけてくれるね萬屋。一体どうしたんだい」
「俺は、ただ、ゲイだろうがストレートだろうが、みんなが自分にとって一番いい方向に進むことができるのが、社会のあるべき本来の姿なんじゃないかと思うだけで。結婚だってそうじゃないですか」
「うん。男女のカップルは婚姻届を提出するだけで結婚できるけど、ぼくたちはそうじゃない。手間暇、金をかけて動いて、それで結婚と同等の権利が得られるとは限らないというね」
「そして、結婚したいのにさせてくれない世の中です」
ふと亜弥の疑問を千歳と光は思い出した。どうしてそんなに結婚にこだわるの。確かに結婚以外でも恋人同士が一緒にいることはできる。それはそうだ。
だが、光や仁にはその選択肢がない。初めから、ない。
それは与えられていないということ。
仁はちょっとため息を吐いた。
「男女のカップルは、たとえ周囲に猛反対されても駆け落ちをすれば結婚できるけど、同性カップルは、たとえ周囲に受け入れられていたとしても結婚できない」
「そうですよね。たかが紙切れ一枚のことで」
「そのたかが紙切れ一枚っていうのが、かなりの深刻な社会的政治的問題であるということだね」
「おれは」
そこで光が参加した。どこか寂しそうだった。
「なんか、法律の問題もそうだけど––––なんか、結婚したいから結婚したいんだ、っていうのが回答でもいいんじゃないかと思う」
「そうだね。ぼくらの結婚したい理由にいちいち理由を求めるのはフェアじゃない」
「先生の––––家族構成とか、聞いてもいい?」
急にいままでの話とは異なる話を始めた光を三人は訝しむ。仁は光を見る。見つめる。それはあまりにも真剣な表情だった。
「ぼくは四人兄弟の末っ子でね。上三人はみんな結婚して子どもがいるから、ぼくがいちいち女性と結婚する必要はないんだ」
「それなら、困らないね」
「家族中は良好だよ。もちろん家族にもカミングアウトしていないけれど、すごく恵まれた家庭で育ったと思ってる」
その回答にどこか切ない顔になった光は、しかしそのまま続けた。
「先生が“困ってない”っていうのは––––」
光は、言った。
「ゲイライフを送ると、選択肢が無数に増えちゃうから?」
仁はしばらく考え、そして、うん、と言った。
「そうだね」仁はうなずく。「だから、このままでいいんだよぼくは。正直に言えば……さっきはいろいろ残念ではあった。だから別の生き方もあったんだろうな、と思う自分も、やっぱりいる。だけど、このままでいい」
そこで仁は光と向き合った。
「だけど北原。お前さんはお前さんのやりたいようにやればいい。それが悪しきことでなければ、自分の生きたいように生きるべきだと思うね」
そして、三人をまっすぐに見つめる。
「大黒と萬屋もだよ。みんな、自分にとって一番いい感じでやっていけるように願うよ」
「先生の“一番いい感じ”って、なに?」
光の質問に、しばし考え、やがて答えた。
「お前さん方が数学を理解できたときかな?」
電車のアナウンスが鳴った。
そろそろ別れる時間だった。
駅に到着した。
「じゃあね皆の衆。また明日学校で会おう」
そう言って、やがてそのまま仁は帰路に着いた。
「……」
その場に残された三人は、このあと帰るだけだが、しかし、どうすればいいのかよくわからなくなっていた。
そう、それは、社会がより良くなるためには、どうすればいいのかよくわからないのと、同じように。
「ジン先生は」
さっきからずっと黙っていた千歳が口を開いた。
「ジン先生は、“疲れてる”んだと思う」
きっと仁にもいろいろなことがあったのだろう。三人にわかるのはそれだけだった。
「うん。そうだね」と、光。
「だから光くんも、要するに、疲れてるわけだよね」
千歳は光の目をまっすぐ見る。
光はその目をまっすぐ受け止める。
「うん。そうだね」
光の苦悩を自分たちは受け止められるだろうか、と、二人は思う。
「結婚できないとかだけじゃなくて、いろいろ、疲れること、悩むことはあるよ。現代人だし、高校生だし……。だからゲイとしてだけじゃなくても悩みはあるけど––––ゲイとしては、正直、疲れちゃう」
友達の苦悩を––––受け止めたいと思う。
「なんかあったら言えよ」と、和洋。「俺、絶対に力になるからな」
「あたしも」
「ありがとう」
そう呟き、光はなんだか疲れたような笑顔をした。
人は悩みが絶えない。だが、千歳も和洋も悩みは絶えないが、少なくとも“社会的な”悩みは抱いていない。
少なくとも、いまは。
いつか、もっと大人になり、社会的な悩みを抱えたとき、自分たちは仁のように生きていくのだろうか。それとも、戦うのだろうか。もし後者を選ぶなら、それは選択肢が無数に増えるということ。
そして––––進んでしまったならば、もう元には、“普通”には戻れなくなるということ。
それでも社会と真正面から向き合うだろうか。
いまはなにもわからなかった。
「じゃあ、また明日ね〜」
やがて三人も帰路に着いた。また明日。本当に、また明日も会おうね。再会することができるというのはすごく奇跡的なことなんだな、と、みんななんとなくそう思った。
EPISODE:3
I’m not troubled in the closet
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます