たばこ

 今朝の6時から出勤する羽目になり、午後の10時まで残業は続いた。ここ最近はずっとそんな調子で10日連勤となって、繫忙期の渦潮に吞み込まれている。

 こんな日は自分を傷つけてみたくなった。とにかく感情に変化が欲しかったから。

 「ありがとうございましたー」

 急行から各駅に乗り換えるための途中下車、気づけば駅のホームにあるコンビニで煙草とライターを1つずつ買っていた。大学の頃は碌に人が集まるような打ち上げをしなかった為に、煙草を吸うどころか目の前で吸っているのを見た経験すら無い。かといって甘いものや酒にも手は伸びなかった。自分を包む空気だけ澱んで全部が麻痺しているような気分で、痛みしか感知できないような……。

 ならいっそ、澱んだ空気を吸ってやろうと思った。

 しかし一度も吸った事がないからこそ、喫煙スペースすら分からない。中学高校の頃は駅のホームの休憩室がそのまま喫煙も出来たような気がするが、そんなものはない。結局駅のホームを端まで歩けど灰皿は見つからず、改札の外へ出た。そういえば駅に近いカフェチェーン店が喫煙スペースを作っていたような気がする。どうせこのまま家に帰っても寝れないだろうと思い、寄ってみたが。

 「まあ、店じまいだよな」

 時刻は22時半を過ぎ、頼りのカフェは閉まっていた。俺は手当たり次第に喫煙所を探す。商業施設、自動販売機の近く、バス乗り場。フラフラ進んでいると駅の西口に喫煙所があった。他に人はいないのが幸運だった。ガラスに寄りかかり、何となくでセロハンを剥がし包装紙を引っ張る。色付きのフィルター側を爪でつまみながら口に咥えた。

 左手の添えたタバコごと右手のライターへと近づける。

 口に咥えたまま上に傾けるようにして持ち、先の方を覗きながら息を吸ってみたが、唾か煙かで噎せてしまう。まるで哺乳瓶で泣く幼児みたいに。

 「うまくいってないんだろうな」

 いっそ短くより強く息を吸い、噎せながらも簡単に火が点いた。

 煙を吸ってすぐに吐いても味がしない。少し吸って、煙草を離してもう一度息を取り込む。結果は同じだった。大きく吸えばせき込んで涙が出る。先端が灰になっていく様子にビクつきながら、吸う度吸う度スタンド灰皿に押しやって地面に飛び散る。

 何一つ上手くいっていない事は俺にだって分かる。

 「・・・・・・何やってんだか」

 パーテーションは磨り硝子で外の景色が見事にボヤケていた。夜風がやけに寒い。吸い方によっては甘いとかニコチンが適度な平常心にしてくれるとか、そんな事はすっ飛んでいた。これなら初詣のお炊き上げの火に近寄った方が暖かくてまだマシだ。

 人目を気にしなくて良いように、というのが本来の意味なのだろうが。少なくとも俺にとってはすりガラスの意味は別のように思えた。目の前の光景に、靄がかかって欲しかった。

 息をゆるゆると続けているだけの僅かな時間だったが、ニコチンが効いてきたのかもしれない。思い切りスパンと上に息を吐いてやろうという気分になった。ペデストリアンデッキの裏、駅から延びる高架型の歩道の陰は喫煙スペースの陽を妨げるのだろう。まだ半分は残っているだろうタバコを1分近く、スタンド灰皿の波打つ模様に擦り付けていたら楕円の穴へと滑り落ちてしまう。

 何もかも指の隙間をすり抜けていくような肌感覚が今だけは心地良いものだった。

  

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