醸成
目の奥が、喉が、焼け付くように熱い。レジ袋の中の缶チューハイにはまだ手を付けていないのに。若者は、自分が冷静ではないと俯瞰から見下ろす別の自分がいるような錯覚を抱きながら、産まれた時の病院へ黙々と向かっていた。
病院には決まって二つの入り口がある。一つは治療のための入り口で、もう一つは自傷の為の入り口。表向きはあくまで自殺ではなく自らを傷つける為の道。濃いブラウンの壁にカモフラージュされた通用口のようだ。
地下へと続く階段を下りていくと、開けた空間が現れる。室内は薬局とバーが合わさったかのようだ。横長の四角い部屋の奥に男性バーテンが陣取り、更に奥が「生命の水」の保管庫という事になる。
「ナンバーは?」
バーテンが小さく声をかける。カウンター席の隣では老人が突っ伏して眠っていたので、彼を起こさないようにする為に。
「LEの317、148T2の七番」
カウンターに紙を置き、用意されたペンと指紋で430mlに押印する。その注文は自殺しに来る客の平均と比べて倍以上の量だが、慣れたバーテンはそれを平静に受け流した。
「かしこまりました。お時間を数分頂きますのでお待ちください」
ガラス張りの奥では一人ひとりに与えられた「樽」がある。その樽の中の生命の水こそが寿命であり、樽が空になれば人は間もなく死ぬ。社会では他殺と同等に自殺も固く禁止されているが、自分の生命の水を飲む自傷行為は合法だった。
手持ち無沙汰になって辺りを見回すと、部屋の照明は客側と従業員側ーー血の気のない白色の明かりと血の通った暖色の明かりで、手前と奥の境界線が敷かれていた。階段をコツコツ、ゆっくりと降りていく音が背後から聞こえてきたが、つい振り返っても明暗の関係で誰が来たのかよく見えない。
「お待たせしました」
やがて若者は大きなジョッキになみなみ注がれた自分の生命の水を一口飲んだ。口の中をモゴモゴ動かしてみたり、少しうがいみたく泡立たせたりしてみる。生臭いニオイと、舌の奥を通り過ぎた途端、鼻を抜ける香りが返ってこない。後味も水のように薄かった。口を開けて風味を引き出そうと苦心している若者の口から文句が出た。
「クソッ、まだ死ぬなってか。ふざけんな」
生命の水を味わうのは、自分自身の採点に等しい。ケチを付けられる事を予見して彼は事前に缶チューハイを買っていた。
「バーテン、ポテトチップスくれ」
「かしこまりました」
若者はジョッキの中を減らしては、レモンチューハイを注ぎ込んでレモンサワーもどきを作りつつ更に飲み進める。美味しくない生命の水を飲むのは辛い。そうやって若者が生命の水を強引に流し込んでいると。
「いい飲みっぷりだね」
それはさっきカウンター席で眠っていたはずの隣の老人だった。話しかけないのは暗黙のマナーみたいな所があるのだが、この老人はそれを気にしなかった。
「そんなつれない表情をするな、お兄さん」
「誰かに話を聞いて貰いたくてここに来る訳ないでしょう」
「そう言うな。乾杯しよう」
席を立とうかとも思ったが、老人の手にしたショットグラスに目がいった。若者が混ぜたレモンサワーもどきと違い、切り出したばかりのような琥珀の色を。
「お兄さん凄い頼んだね。今日死ぬ気かい?」
「自殺は法律で禁止されていますから、こうするしかない」
「そうだな。私ぐらいになったらもう免除されるんだがね」
全く。死ぬなら勝手に死んでほしい。若者はそう思った。
「乾杯」
若者は応えていないが、老人が勝手にショットグラスをキンと押し当てた。彼のつまみは素焼きのカシューナッツのみで、静まった店内にポリポリと響く。
「お兄さん、さては二回目だね」
「それが何か」
生命の水での酔いはアルコールのそれとは異なる。本来なら上機嫌に老人と話せるはずだが若者は混ぜ込んだチューハイのアルコールに酔っている。その自覚が更に若者を苛立たせた。
「まあ聞いて。私も15歳の頃に一回行ったんだよ。バレないよう家出してね」
自分の生命の水を飲む自傷行為は、未成年であろうと容認されている。
「飲んでみたらとにかく味が薄くて。てっきりゼリー状の大便に生ゴミを刻んで入れたみたいな味を想像してたのに、そんなに飲めない味じゃなかったんだ。溶かしたナタデココみたいでね」
若者は思わず振り向く。老人の表現が想像も現実も言い得て妙だったからだ。
「死ねるかもと思った途端、怖くて飲めなかった」
「・・・・・・それがその一杯分に?」
「うん。どうだ兄さん、交換しないか」
老人は自分のショットグラスを若者に差し出した。
老人の言葉に、若者は動きをとめ、振り向いて眉をひそめた。生命の水はその人の寿命だ。
「・・・・・・何言ってるんです」
「いいから。一杯飲んでみな、我ながら良い出来だ」
若者の、固まった左手の上にショットグラスが渡る。せいぜい小さじ2杯分にしか見えないそれに、心惹かれるままに若者は飲んだ。
「ーーーっ、」
「どうだね」
「・・・・・・美味い」
目を閉じればそこは樫の木の森の中。舌先を通した風味は鼻へと抜けていき、それは絹のように滑らかで蜂蜜のように芳醇。微かに効いた胡椒のような匂いのおかげでもう一口飲んでいた。
そしてその後味。奇妙なもので、まるで水のように軽い。さっきまであれほど引き込まれた風味は何事も無かったかのように消えてしまっていた。飛ぶ鳥が後を濁さないように。だからこそもう一杯飲みたくなる。
「そ・・・・・・その、もう一杯貰えませんか」
「ああ、勿論。代わりにそのサワーをくれ」
老人は上品にバーテンに声をかけ、自身の樽から生命の水を追加で注文した。そして若者の分を受け取るなり一気に飲み干した。豪快な飲みっぷりだった。
「ハハ。カシューナッツには合わないが、これも美味いよ」
若者は思わず老人がバーテンに出したカードを見つめた。
樽のナンバーはFPの296、770C4の五番。
「お客様。お願いします」
バーテンは若者を呼び、ショットグラスになみなみ注がれた一杯を出した。若者は老人にご馳走になると言おうと思ったが、彼はまた眠ってしまっている。
「・・・・・・お願いしますっていうのは?」
「これがお客様の最後の一杯、という事です」
老人は隣で安らかに眠っている。近寄りたくても近寄ることが出来なかった。触れた途端に何かが壊れてしまいそうな気がした。もし目を覚ました時、自分のグラスにまだ僅かに残っていたら老人はどう思うだろう。
「私たちの間ではエンジェルズ・シェアと呼ばれております。樽の中の僅かな生命の水は、引き取り手がいなければ天使にお裾分けするのです」
「・・・・・・じゃあ、この一杯を俺が飲まなければ」
「天使にお裾分けいたします」
つまりは捨てるという事だ。この老人は他に引き取ってくれる人がいなかったのかもしれない。
若者は最後の一杯を飲み干す。自然と身体は立ち上がり、背筋が正される。胸の中がいっぱいに膨らむようになったのは、それだけ香りを味わおうと鼻で息を吸っていたからだった。
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