男の背中
朝礼で課長が話をする間、男はただ一人背中にを向けていた。何か気になる事があるのかもしれないが、随分と悪目立ちしている。
「君。なにかあったのかい」
朝礼が終わって周りが各々の席に座る中、課長は男の背中に話しかけた。
しかし、男は全く振り向く素振りを見せなかった。
「……その声は課長、ですか?」
ムッと表情を厳しくしたが、当然男には伝わっていない。
「君に話しかけているのだが、何故こっちを向かないのだね」
「実は昨晩からどうも耳の様子がおかしいんです。物音が後ろから聞こえてきて」
課長は呆れて、男の前にあるパソコン画面に割り込んだ。
「なんだその冗談は、ふざけているのか」
課長は声が大きい人で、周りの人間は須らく課長の方を見た。けれど男は胡乱げな、どこか呆けたような表情を向けるままだ。
「おい君。聞いているのか」
とうとう我慢できず、怒鳴ってしまっても男は表情を強張らせたりしない。
むしろ首を徐に振った後で、男は立ち上がりそっぽを向いてしまう。
「すみませんが背中に話しかけてください」
課長は怒ったが、なんだか相手するのも馬鹿らしくなって席に戻った。
男はそれからも実に奇怪な行動を取り続ける。電話がくれば髪を櫛で梳かすように後頭部に当て、昼食の時間には食堂のカウンターに背中で対応する。ビデオ会議でも一人だけ背中を向けた男の姿が映る。
頭がおかしくなったとすぐに噂になり、男は色んな誹謗中傷がされてしまった。早めに病院に行くと同僚や上司に伝えたものの、その顔を伺う事は出来ない。帰宅途中の男は自分の身に起きた異変にどうしたものかと頭を悩ませていた。
「お兄さん、お店やってますけどどうですか」
男の背中に若い男性の声が掛けられる。振り向くまでもない、客引きの台詞。面倒くさいと思いつつ前を歩いても声は止まらなかった。
「30分2000円ですよ。帰る前にちょっとだけ寄っていきませんか?どんな子が好みです?良かったビラだけでも持っていきませんか?」
やがて男は振り返った。客引きは食いついたと思ってビラを手渡そうとする。20代前半の若い客引き……アルバイトのようなもの、かもしれなかった。
「君はいつもこんな事してるのか」
客引きの顔が一瞬曇る。男の台詞が説教くさいので覆面警察かと思ったのだ。男はビラを一枚貰って客引きに背を向けた。
「君が今日で一番良い人だったよ」
客引きは怪訝な表情をして、すぐに男を見限った。酔っぱらった変な奴だと思ったらしい。新たな客を誘おうとする若い青年の姿を、男は遠巻きに少し見守った。
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