第10話 説明会③
期待に胸を膨らませながら契約書を読んでいると燕尾服の老紳士はまた別のキッチンカートを押してきた。
「諸星様。挽きたてコーヒーでございます。ミクル、砂糖はご自由にどうぞ」
わざわざコーヒーを運んでくるためだけにカートを一台使うなんて俺への待遇が特別すぎる。
財団の「財」はすごいな。
俺が書いてきた小説の中に何か可能性を感じてくれたのか? ゆくゆくはコミカライズされたり映画化されたりとか。
ここにきてまた希望が溢れてくる。
燕尾服の老紳士がソーサーに乗ったコーヒーカップとスプーンを俺の目の前に置いた。
つぎは白い陶器でできたアラジンのランプのような入れ物に入ったミルクと砂時計のようなガラスの瓶に入った砂糖を置く。
砂糖入れにはちゃんと砂糖用の小さなスプーンもある。
すべての食器が高級そうだ。
「ありがとうございます。あの?」
契約書でわからないことは直接訊くのが早い。
「今回の出版契約って自費出版じゃないですよね?」
「はい。左様でございます。出版に関わるいっさいの費用は弊社持ちでございますのでご安心ください」
「ですよね」
俺が契約書を読んだかぎりでもそれっぽいことは書いてなかった。
間違いなく商業出版だ。
「ただ、ご自宅で原稿を印刷されるような場合にはインク代や用紙代はご負担いただきますのでそのかぎりではありません。電気代や通信費も同上です。また執筆のための取材費などもご自身の負担となりますことをご了承ください」
「そのあたりは心得てますので大丈夫です」
「ご著名な作家になられた場合、出版社が積極的に経費をだしてくれると思いますよ。では諸星様のご武運をお祈り申し上げております」
たしかに大物作家になればそれはあるだろうな。
アラジンのランプのような入れ物に入ったミルクを持ちコーヒーカップに注ぐ。
ミルクを多めに入れてから砂糖も同じく多めに入れてスプーンでよくかき混ぜる。
コーヒーカップを持ちフーフーと息吹きかけると燕尾服の老紳士がめずらしく慌てた様子を見せた。
白い手袋がコーヒーカップの上で俺にコーヒーを飲まれるのを遮っている。
「諸星様。書類にコーヒーを零されるといけませんのでまず最初にご署名、ご捺印をお願いいたします」
「えっ、あ、はい」
たしかに俺がここでコーヒーを零したら契約ができなくなってしまう。
さすがにコンシェルジュだ気が利く。
俺はいったんコーヒーカップをソーサーの上に戻しワンショルダーリュックの外のポケットから印鑑と朱肉を出した。
燕尾服の老紳士が置いてくれた万年筆を手にとってキャップを外す。
やっぱり重い。
すごい重量感だ。
俺は住所、氏名、電話番号をささっと書き判を捺した。
万年筆にキャップをして机に戻す。
小さなことだけど一仕事を終えて俺はまたコーヒーカップを手にとった。
じゃっかん緊張して喉が渇いたかな。
重い万年筆を渡されたのは緊張で手が震えるを抑えるためなのかもしれない。
でも出版までの道のりがいまいち曖昧だよな?
「いただきます」
「どうぞ」
唇をつけたとたんにまず舌が反応した。
飲みなれない味。
うわっ!?
に、苦っ!?
なんか苦みが強い。
高級コーヒーってこんなもんなのか? 砂糖もわりと多めに入れたのに漢方のように苦い。
ミルクも多めに入れたけどぜんぜんマイルドになってない。
舌というか口全体がまだ苦い。
苦みが消えない。
コーヒー豆の量を間違えたとかじゃないよな? でもこの人にかぎってそんなミスをするようには思えない。
なんかフワフワしてきた。
なんだこれ? すごい疲れたときに布団に入ったときような感覚。
えっ、なんだ? なんなんだ、これ……? ス、スゲー、眠たい。
体の力が抜けていく、全身に力が入らない。
そのまま机に突っ伏してしまいそうだ。
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