第4話 ある伯爵の朝

 新しい朝が来た。

いや正確には、まだ来ていないね。

朝日が昇るより早くベッドから飛び出して、シーツを完璧に整える。

本来は使用人の仕事なんだけど、まだ使用人も来ていない時間だから、当然自分でやるしかない。


 厨房へと入り、パンと卵とハム、それとベーコンを用意する。

フライパンに油を引き、卵を焼く、彼女の好みは半熟。

半熟に焼き上がった厚焼き卵とハムを薄切りにしたパンに挟み、特性ソースを塗り込む。


 シンプルなサンドイッチだけど、これが彼女、僕の妻リリアンの好物だ。

ベーコンを焼き上げたあと、コーヒーの麗しい香りが辺りに充満して来たところで、

料理人のパラキートが部屋に入ってきた。


「おはようございます。旦那様。今日も早いですね」


「あぁ、僕がどうしても作ってあげたいからね」


「奥様は幸せ者ですね」


———そんなことはない。

本当に幸せ者なのは僕の方なんだよ。

美しい妻がいて、輝かしい毎日を送らせてもらっている。

こんな幸福な時間のお礼がサンドイッチなんかで足りるはずがない。そうだろう?


 パラキートに料理の後始末と配膳を依頼して、食卓についてリリアンが起きてくるのを待つ、それがヘロンの朝の日課だ。



「おはようございます」


 小鳥のさえずりのような、天使の歌声のような声が響いて来た。


「あぁ」


———今日も美しいね、リリアン。


 そう続けようとしたが、どうしても口が回らない。

急にそんなセリフを言ってしまったらおかしいと思われるかもしれない、そんなことを考えてるうちに三年が経ってしまい、ますます言えなくなってしまった。



「またあったかくなりましたね。もうすぐに春が来そうですね」


「あぁ」


———僕の心にはずっと春が来ているよ、リリアン。



「今日も遅くなりそうですか?」


「あぁ」


———下らない雑務をこなしてる間も君のことが、本当は君のことが頭から離れないんだよ。



 どうしても続ける言葉が口から出なかった。

なんとか口から言葉を出そうと必死に動かしてみても、サンドイッチがあっという間になくなるばかりだった。


 今日も何も話せなかった…後悔を抱えながら、自分が作ったサンドイッチをパクパクと食べてくれるリリアンを見て癒される、そんな日々の繰り返しだ。


 リリアンがサンドイッチを全て平らげてくれたのを確認して、席を立つ。


「あの…難しいと思いますけど、早く帰ってきてください。夜も…旦那様と少しでもお話ししたいので」


———————そんなこと…初めて言われた。どうしたんだろう。

今日のサンドイッチはそんなに上手くできてたのかな?

いや、しかし、でも、だが、しかしながら…。


 ヘロンの頭はいつもと違うリリアンとの会話にひどく動揺した。

他の人間から見れば変わらずの無表情だったが、その薄紫の瞳が細かく左右に振動した。


「あぁ」



 そう言ってなんとか立ち上がったが、動揺のためか、机にひどく腹を打ち付けた。

机に打った鈍い音とガシャンと皿が立てる音がハーモニーを奏でた。


「だ、大丈夫ですか?」


 リリアンも慌てて立ち上がり、ヘロンの肩を抱いた。

ふわりと甘い匂いと一緒に温かい風が自分を包んだ…ように感じた。


「…あぁ」


 なんとかその足で玄関まで行って扉を開けて出発するところまで漕ぎ着けた。

今日は朝からなんて素敵なハプニングばかり起こるんだろう、そんな風にヘロンは考えていた。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 言えた…。

結婚して三年経って初めて、自然に出発の挨拶に成功した。

朝のハプニングのおかげなんだろうか。

とにかく今日は素敵な一日になりそうな予感がする、とヘロン•キャンベルの胸は高鳴った。




———旦那様の出発を見送って、いつものように使用人に挨拶をしてからリリアンは自室に戻った。


 今日の旦那様はおかしかった。

最初はいつも通りだったけれど、

少し甘えてみたらひどく動揺しているようにも見えないこともなかった。


「初めて…行ってきますって…」


 もしかしたら、もしかしたらもしかしたら本当に、私のことを好きだと思ってくれてるのかもしれない。


 そんなことを考えながら壁の隙間を見つめていた。

リリアンはとにかく妖精たちの話の続きを早く聞きたかった、聞かなければいけなかった。



———三時のおやつの時間の少し前になって、ようやく妖精たちは姿を見せた。

すぐに椅子に座るリリアンとその隣に準備されたクッキーを見て三人で揃ってお辞儀をした。


「もぉっ!遅いよ!」


「お、遅かったでしょうか?このライアンいつもこのくらいの時間にお邪魔している気になっておりました」


「いつも通りだけど…いつもこのくらいだけど…今日は遅いの!」


「そ、それは申し訳ありません」


「ねぇねぇねぇ!そんなことより、旦那様の話を聞かせてくれない?」


 丁寧に謝罪と挨拶をしようとするライアンを遮ってリリアンはぐいぐい話を進めようとした。


「御嬢様っ!旦那様の噂話を僕達も出来るだけ集めてきましたっ!」


「本当?ありがと!どんなのがあるの?」


「まずはですね」と『小鳥』が話し始めようとしたところで、『小人』が手を使ってそれを遮った。


「申し訳ありません御嬢様。無礼千万は承知の上で御座いますが…先に我々の話を聞いては頂くことはあたうでしょうか?」


 いいところだったのに…そんな風なことを思ってから、すぐにリリアンは反省した。

自分の要望を一方的に妖精たちに押し付けてしまっていた。

そんなことでは友達だなんて名乗れない。


「うん…そうね、うん、ごめんなさい。お願いがあるって言ってたもんね。私…でも、この家のお金とかを自由に出来るわけじゃないから…そんなに多くは聞いてあげられないと思うけど。なぁに?」


「金品など望みません。ただ我々にも…その、ライアンのようにお名前を拝命することはできないでしょうか?」


「はっ…お願いしますっ!」


 緊張した面持ちで『小人』が頭を下げると、思い出したように『小鳥』も連れ立って頭を下げた。


「…そんなことで…いいの?」


「そんなことではありません!このライアンのように人間様からお名前を頂くというのはそれは素晴らしきステータスなのです。リリアン様が認めて、このライアンを必要として下さった証なのです」


 ライアンが誇らしげに短い指で天を指しながら答えた。


「そういうものなのね…そっか、わかった。ちょっと待ってね、そうね…う〜ん、二人分だからね」


「私は文字の読み書きができ、知識も豊富です。人間の方々よりも永く生きていてこの国の歴史なども…」


「僕は飛べますっ!鳥よりも高く早く飛べますっ!力持ちですっ!その気になれば御嬢様も…」


 二人の妖精が必死になって自分のアピールポイントをリリアンに説明した。


「…わかりました!頭のいいあなたのお名前はスコラー。そして立派な羽根を持ってるあなたのお名前はグリフィン!うん!すごくすごく可愛いでしょ?」


「スコラー…スコラー…スコラー…私の名前…恐悦至極にございます」


「グリフィンっ!くぅ〜、ありがとうございます!」


「い〜えっ!満足してもらえた?」


 妖精たちは、なぜかライアンも含めて、三人で大きく頷いた。



———二人に命名をしたあと、三人はたっぷりと旦那様に関する話をしてくれた。

実は朝食を作ってくれてるのは旦那様だとか、使用人の一人をリリアンと話しやすいように同じ年頃の女の子にしてくれてるとか。

 

 去年の冬どこかの貴族様から届いた素敵な白と紺のドレスは実は旦那様からのプレゼントで、その証拠に左の袖口の裏…誰にも見えないところに小さくA.H.Cと刺繍されてるなんて話を教えてもらった。


 流石にそこまで言い当てられるとリリアンも妖精たちの話を信じないわけにいかなくなっていた。


「他にもですねっ!旦那様の帰りが遅いのはっ!お仕えするエアドリク王子が兄王子たちから雑務を押し付けられてるからみたいです!」


 グリフィンが赤い羽根を振り回して身振り羽振りを交えながら一生懸命説明してくれた。


「そうなの?それでいつも帰りが遅いの?」


「そ、そうなのです!そこでこのライアンが一計を案じてですね、雑務の押し付けをしばらくできないようにして参ります。そうすれば休日を作ってリリアン様と出かけることもできるかと思います」


「そんなことできるの?」


「簡単明瞭なことでございます。現在王都に逗留中の公爵様…現王様の弟君であらせられるこの公爵様がいる間は兄王子様たちも真面目に業務に取り組まざるを得ません。そこで、公爵様を王都に長く止めればアルデバラン伯様の業務は通常の量になるはずです」


「どうやって公爵様をお止めするの?スコラーたちの姿は公爵様には見えないのよね?」


「ヒヒヒッ…我々が三十人も集まって耳元で一晩『王都を離れては命が危ない』と囁き続ければ公爵様にも虫の知らせくらいは届きますよ」


 スコラーは緑色の背中を震えさせながら黄色の目を三日月のように細めて不気味に嗤った。



———スコラーたちの恐ろしい計画を伝えられて一週間ほど経ったある日、

夕食の席でヘロンから、明日から三日ほど休みを取れそうだと告げられた。

妖精たちが見事にやり切ってくれたのだとリリアンは確信した。


 仕事に忙しいヘロンは今まで一日だけの休みが取れる日はあったが、大抵は家で仕事をしているか、休息を取っているかで自室に篭りきりだった。


 リリアンも避けられているものだと勝手に思い込んで干渉はしないようにしていた。


 だが、ヘロンの気持ちを知った今は違う。


 そっと一つ席を移動して横に座り、彼の膝に手を置いた。


「も、もしよかったらどこかへお出掛けでもしませんか?」


 上目遣いで旦那様の顔を覗きこむと、薄紫の瞳を揺らしながらものすごいスピードで瞬きをしていた。

なんとか冷徹な表情を保ってはいるが、よく見ると耳が赤くなり始めている。


そしてそんな状態のまま、旦那様は平静を装って「あぁ」と短く返事をした。


———ねぇねぇねぇ何!?この生き物!可愛すぎない!?

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