第2話 ネズミは喋らない


———ネズミが言葉を喋って走って逃げていった。

一瞬の間に壁の隙間に潜り込み影も形も無くなってしまった。


ネズミが喋るわけがない…

私どうかしちゃった…という気持ちと、

でもでもでもでも本当に本当に喋ったの、

と言う気持ちがリリアンの右脳と左脳の間でぶつかっていた。


 退屈な毎日に飽き飽きしていたリリアンは少しばかりの好奇心を原動力にしてこの謎を解き明かしてやろうと思った。


 まずはキッチンに行って、小腹が空いたと話して料理人にミックスナッツを少しばかり分けてもらった。


———自室に戻ると窓辺にアーモンドを置いてカーテンの裏に隠れて観察していると、目論見通りにまたネズミがやって来た。


 ネズミは辺りをキョロキョロとしたあとでアーモンドを手に取った。


「ナッツはお好き?」


 ネズミが慌てて辺りを見渡すとカーテンの裏から少女のような顔で笑っているリリアンがのぞいていた。


 咄嗟に逃げようとしたが、それより早くリリアンの手がふわりとネズミを捕まえた。


「ねぇねぇ逃げないで!ナッツならまだまだまだたくさんあるから!」


 ネズミを優しく手の中に収めたあと鼻先に持ってじっくりとネズミを見まわした。

白っぽい灰色の毛並みの中でクリクリとした黒い瞳が潤んでいた。


「あなた人の言葉が分かるの?」


ネズミはぶんぶんと首を横に振った。


「あなた人の言葉が喋れるの?」


 ネズミはまだぶんぶんともげるんじゃないかと思うほど首を振り続けた。


「なんだ…どっちも出来ないのね…普通のネズミさんなの?」


 リリアンが寂しそうにそう尋ねると今度はコクコクと首を縦に振った。


「分かってるじゃない、嘘つき」


 そう言ってネズミの鼻をチョン、と押した。


———ネズミはしまった…というように自分の鼻を撫でると観念して話し始めた。


「な…なんと美しき謀略。このネズミめは敬服いたしました」


 ネズミは可愛らしい子供のような声でそれと似合わない随分と畏まった風に喋った。


「わぁ…本当に本当に本当に喋れたのね!?すっごい!私お話しをするネズミなんて初めて見たわ!」


「わたくしめも人間と話したのはもう何十年振りのことでございます…。人間には私の声は聞こえない筈ですのでつい油断を…」


「そうなの?他の人にはあなたの声が聞こえないの?」


「はい…。つきましてはリリアン•キャンベル様、どうかお願いでございます!わたくしめのお命をどうか見逃してはくださらないでしょうか…!」


 突然ネズミがリリアンの手の中で丸くなり、

灰色の毛玉のような風貌になると頭を下げるような格好をしてブルブルと震えていた。


リリアン…確かにリリアンとそう呼んだ。


「どうして私の名前を知ってるの?」


「わたくしめは所詮汚らしいネズミ…この家の屋根裏を駆け回ったり食糧庫のチーズを齧ったりしておりました…。その際にお名前もお聞きしました」


「聞いたって…誰から?」


「使用人共が…リリアン様はこの家においでになられてから三年経つがまだ馴染めないようだと噂しておるのを盗み聞きいたしました…」


ネズミは一層丸くなり呼吸も荒くなっていた。


———それを見たリリアンの心の中にちょっとしたイタズラ心が湧いてきた。


「あなたうちのチーズを齧ってたんですって?」


 リリアンはいつもより低い声でゆっくりと喋った。


「は…はい!大変申し訳ございません…!」


 怯えるネズミに対してリリアンはできるだけ冷徹に女王のように喋った。


「あなたの命を助けるためには一つ条件があります」


「は…このネズミめにできることでしたら…に、庭掃除なども少々お時間をいただけましたら…」



———そこでリリアンはネズミの頭を三本の指で優しく撫でながら微笑み、口調も少女のようなものに戻した。


「私とお友達になって?」


「五年もあればお庭も…え?」


 ネズミは聞いた言葉が理解できない、と言った感じで顔を上げて首を傾げた。


「だーかーら!私とお友達になってくれない?」


「いえいえ!わたくしめは汚らしいネズミ!人間様から忌み嫌われるものです…こんな汚らしいネズミめなどとお友達など…」


 ネズミは聞いた言葉を理解したあとで、激しくそれを否定しへりくだり恐縮した。


「じゃあ殺します」


リリアンはイタズラっぽくネズミに言い放った。


「ひっ…こ、このようなわたくしめでよければ是非リリアン様のお友達の末席にお加えいただけたら…」


 ネズミはリリアンの返答を真に受けてしまったようで怯えた目をしてまたブルブルと震え始めた。

反対に、返答を聞いてリリアンの紺碧の目はキラキラと輝き始めた。


「ありがとう!ナッツを食べる?それとも他に好きなものはある?やっぱりチーズ?…あ!そんなことよりあなたのお名前は?」


「す、好き嫌いはございません。それと、わ、わたくしめの名前はございません…ただのネズミめでございます…。」


 恐縮しきりの『ネズミ』の背中を指で撫でると少し安心したように震えが止まるのがわかった。


「ふぅん、ネズミメちゃん?くん?」


 ミックスナッツをいくつかねずみの足元に乗せると、ナッツを齧りながら質問に答えた。


「ネズミめではなく、ネズミでございます…。産まれたときはオスでしたが今は妖精…性別はございません」


「あなた妖精さんなの?!私……初めて見た!」


 驚いて上げたリリアンの声に少しビクッとしたあとで、さらにナッツを頬張りながら『ネズミ』は喋った。


「つ、通常は…見えても認識できませんし、声も聞こえません…。リリアン様は…何か妖精と縁がおありなのかと思います。美味しいです、これ」


「たくさん食べてね。この家には他にもあなたみたいな妖精がいるの?」


「たくさん居ます。リリアン様はわたくしめと今こうして話したことで深く妖精と結び付きましたから、見つけることが出来るようになられたと思います」


「そうなのね!みんな仲良くしてくれるといいなぁ」


 ナッツでパンパンになった頬を突きながらリリアンが、


「ところで、あなたのお名前私がつけてもいいかな?」


と尋ねた。


『ネズミ』は驚いて口に含んだナッツを吹き出すと、敬服したようにリリアンの手の中でまた丸くなってしまった。


「な…なにをおっしゃいます!わたくしめはか弱き妖精…それもネズミです…!畏れ多くも人間様の…それもその中でも伯爵様のご夫人様に名前をいただくなど…!」


「人間とか、伯爵夫人とかじゃなくて、あなたの友達として名前を贈りたいと思っただけなんだけど…迷惑だった?」


「迷惑だなど…ただ、このネズミめにとっては勝ちすぎる幸福かと」


「そんなに畏まらないで、お友達になってくれるんでしょ?」


「あ…あ…ありがとうございます」


 『ネズミ』は丸くなるのをやめて少しだけ顔を上げて黒い瞳でリリアンのことを見た。リリアンはそれに納得してから、首を捻り始めた。


「じゃぁね〜、うーん、ライアンはどうかしら?私の名前とよく似ていてお友達にすごくすごくピッタリだと思うんだ…け…ど?」


 リリアンが名前をつけ、話終わるよりも早く『ネズミ』はボロボロと黒い瞳から涙を流し始めた。


「そ…ぞのような…ありがたい名前を…拝命じ…して…このライアン…永久に…大事にいたします!」


「そんなに大袈裟なものじゃないってば〜」


———日が暮れて夕飯の時間が近くなるまでライアンとの話は続いた。


 使用人のダックがパンをこっそり裏口から出て野良犬にあげてること。

 

 料理人のパラキートは、口八丁で女の子に六股をかけていたらそれがバレて全員からボコボコにされたらしいとか。


 他にもライアンはたくさんの噂話を教えてくれた。

誰とも話をしていなかったリリアンにはとても刺激的な時間になった。


「あなた、本当に色んなことに詳しいのね」


「いえいえ、このライアンなど大したことはございません。妖精たちは人間の噂話を好んでおりますから…」


 そのとき馬車の音がしたので窓の外をチラッと見たが、ヘロンではなかった。


「旦那様…今日も遅いですね。心配ですか?」


「お仕事がお忙しいのはいつものことだから…」


「それにしても随分と他の貴族様よりもお帰りが遅いご様子…このライアンが旦那様のご様子を確かめて参りましょうか?」


「ううん!そんなことしなくて全然全然大丈夫よ? 私は慣れてるし、それに…もし他の女といたりしたら…もうこの家に…」


 いられなくなってしまう…そう言いかけて言葉を飲み込んだ。

妖精相手とはいえ、余計な言葉を口走ってしまうところだった。


 ライアンはそんな風に答えるリリアンの紺碧の瞳に陰が刺したのを見て何かを悟ったようだった。


「今日のお茶会はここまでとします!ライアン、明日もたくさんお土産を用意してるから必ず必ず必ず来てね?」


「は!このライアンの命に変えましても!」


 ライアンは決意をしたかのように高らかに胸を張り、短い腕で敬礼をしてから壁の隙間から帰っていった。


 リリアンは、もうすっかり暗くなってしまった部屋の外を窓の中からどんどん暗くなっていく空をただぼーっと見つめていた。

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