第3話

 体や頭を洗った後はびしゃびしゃになったタオルを片付けさらに床をまた拭いた。後処理が面倒だが仕方がなかった。


 髪の毛をセットしようとセット面の鏡を見た時に自分の顔をよく見ると頬はコケ、クマが酷かった。この3日間ろくに食事も睡眠もとれていなかった。

 人間にとって食事と睡眠というものはとても重要なのだと気づかされた。

 全てを済ませ1時間ほど仮眠をとる、まだ誰も出勤してはこない。

 7時半のアラームとともに目を覚まし今日来るお客さんのカルテに目を通しているとスタッフが次々と出勤して来る、僕は営業前に朝練をしている事になっているので、店長は朝早くから職場に来ている僕を仕事熱心だと思い込んでいる。

「今日も前田は早く来て偉いな、みんなも見習って朝練するように」

 ずっと思っていたがこの人は何も見えていない。僕が朝からなにをしているのか全く気づいてもいない。

 この3日間でより強く思うようになった。

 そんなことより誰かが早く来てしまうと僕の生活がバレるので絶対に来ないで欲しい。心からそう願った。

 「朝礼始めます」

 朝の8時40分お店は動き出す。

 朝礼は毎日当番制で今日は後輩の日野が当番だった。予約の確認、一人一人の今日の目標、店長の一言。

 中身のあまりない朝礼を済ませ営業が始まる。その前にこの店の伝統的な挨拶がある。

 スタッフ全員で店の外に一列に並び

「おはようございます」

「いらっしゃいませ」

「ありがとうございました」

「今日も1日よろしくお願いします」

 この発声は必要なのだろうか?


 宗教みたいだが何年も働いていると不思議と慣れてくる。

 地域密着型の美容室なのでいかにも地域の皆様に感謝しておりますみたいな空気がとても気持ち悪い。

 各々が誇らしげに店内に入って行く。

 僕はその背中を見ながら、心のどこかで軽蔑している。

 営業が始まりカットをしながらお客さんと会話をする。

 僕の場合は会話といっても興味のありそうなことをお客さんに投げて後は相槌を打っているだけ。

 合いの手と頷くことさえしていれば大体なんとかなる。

「今日はありがとうございました、また待ってますね」

 いつもと変わらない挨拶と社交辞令かもしれないお客さんの「また来ますね」

 また来てくれるのか解らないこの最後の挨拶が僕は苦手だ。

 100%で尽くしたとしてもリピートしない人もいる。

 1時間や2時間で人の心を掴み自分の魅力を伝えらる。それはきっとカリスマと呼ばれる美容師なのだろう。

 心がざわつく、僕は平凡で特化した才能もない。

 カリスマ、なんて呼ばれない人がほとんどで、大体の人が凡人だ。

 それでも毎日全力で働きふとした時に己と葛藤する。

 今日も世の中で何人の美容師がそんなことを思っているのだろう。

 当たり前のリピートはないことに一体いくらの美容師が気付き恐れているのだろう。

 だから美容師はどこの誰かもわからない美容師と切磋琢磨しながら自分の技術を磨いていく。

 店に入ろうとしたその時、この平穏な昼下がりには明らかに異質で奇妙な空気を出している人間がいた。

 今までもこの人間はここを通っていたのかもしれない、全く気にも留めていなかった。

 その人間は朝方僕に酒を勧めてきたあの大柄なメガネの男だった。

 僕はなぜかこの男に目を奪われた、昼間から千鳥足で歩くこの男は今までの人生でもっとも未知との遭遇に近い。

 今まで僕はこのような人間に遭遇したことはなかった。

 周りからは白い目で見られているが、僕にとっては新しい発見と好奇心が溢れた。

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