第39話 はゆる、すべてを聞かされる④

「思い出した……」


 汀さんの話をすべて聞き終えた時、私の口から自然と声がこぼれ出た。その声は微かに震えていた。


「そうだ、私は三年前……」

「原因不明の事故だった」


 汀さんが重く言った。余命宣告みたいに。


「私には、いや我々には、予測できなかったんだ。まさかあんな事態に……」

「私は、どうなったの……? この三年間、私はずっと眠り続けてたわけ? どうしてはるなと身体を共有してるの?」


 疑問はとめどなく溢れた。


「実験って結局なんだったの!? どうして私には身体がないの!?」

「映、」


 錯乱する私を、汀さんが制した。


「落ち着いて、私の話を聞いてくれ」


 私は大げさなくらいに音を立てて、唾を飲み込んだ。ホワイトボードを背にして、汀さんは遠い目をする。


「あの実験で、君が意識を失った後……目を覚ますまでに、一週間かかった」

「え……?」


 一週間。その数字は私を愕然とさせた。理由はもちろん、「一週間も眠り続けてたの?」じゃない。その逆、「たった一週間で目を覚ましたの?」だ。


「しかし目を覚ました君は、まるで別人のようだった。私のことも、はるなのことも知らないし、自分が楓縁館という児童養護施設に幼少期から暮らしていることさえ認識していなかった」

「記憶喪失……ってこと?」

「いいや」


 汀さんはゆっくりと首を横に振った。病室の外で待つ患者の家族に、手術の失敗を伝える医者みたいに。


「そんな単純な話じゃない。私ももちろん、初めは記憶喪失を疑ったよ。だが目を覚ました君には、確かに過去の記憶があった。自分がどこで生まれ、どういうふうに暮らしてきたか、君はちゃんと、克明に覚えていた」

「で、でもっ!」


 私は声を上げた。落ち着いて話を聞けと言われたことは、頭からすっかり吹っ飛んでいた。


「私はこの三年間のことをなんにも覚えてない! あの日、実験中に意識を失って、それから三年! 三年だよ!? なにひとつ記憶にないの!!」

「わかっている。は、一切なにも覚えていないんだ」

「どういう、こと……?」

「目を覚ましたのは確かに和泉いずみはゆるだった。だが、それは――君ではない、別の和泉映だった」


 汀さんは淡々とそう言った。


「我々の取り組んでいる研究とは、人間の肉体と魂魄に関するものだ。あの日、君を被験者として実施されたのは、いわゆる信頼性試験のようなものだった。その装置は」


 汀さんはペン先で私の背後のカプセルを指した。


「人間用の遠心分離機みたいなものでね。カプセルに入った人間の魂魄を攪拌かくはんし、肉体から乖離かいりしやすくする。例えるなら……そうだな、ゆで卵の殻を剥きやすくする、裏技みたいなものだ」


 言った後で、汀さんはその比喩がどうも気に入らなかったらしく、頬をゆがめるようにして笑った。けれど一秒後には真顔に戻った。


「当時はまだ試作段階だったとはいえ、装置の安全性は十分に検証されていた。そもそも君の実験は〝本番〟ではまったくなかった。ただ、装置が正常に動作することを確認するためだけの実験だったんだ。


 だがなんらかの不具合が発生し、君の魂魄は肉体を完全に離れてしまった。そして代わりに戻ってきたのは――別の世界の、映だった」


 その瞬間、私は眉間に銃口を突きつけられたみたいな気分がした。喉の渇きを抑えられなくなった。


「我々が〝世界〟という名前を与えて認識しているのは、無数の可能性が収斂しゅうれんした結果だ。裏を返せば、この時空には我々の暮らす世界のほかにも可能性の世界が無限に広がっていることになる。例えば私がこの白衣を身にまとっただけで、その瞬間どこかに、私が白衣を着ていない世界というのが発生しただろう。あるいは別の世界では、私が今手にしているペンは黒ではなく緑かもしれない。


 そうした世界のひとつに存在する、の魂魄が、実験と時を同じくして、なんらかの要因で不安定な状態にあったらしい。異なる世界の同一人物どうし、魂魄と肉体の共鳴が起き、この世界に飛んできたそっちの映の魂魄は、容易に君の肉体に入ることができた。そしてその結果、君の魂魄は君自身の肉体を追放された――。


 私にも信じられなかったよ。というより、未だに信じ切れていない。だがこれは絵空事でも妄想でもなんでもない。確かな事実として、君に起こった」


 そこまで言い切ると、汀さんは大きく息を吐いた。三年の間、胸につかえていたものを、なにもかも吐き出したようだった。


 私は、言葉も声も失った。


 汀さんの話は――専門的な用語が多く登場したというのを抜きにしても――あまりにも、ぶっ飛んでいて、私の理解の範疇を軽々超えていた。


 でも実際、今の私の魂は本来の身体にない。そのことが、どんな言葉や数式なんかよりも明確に、汀さんの話が紛れもない真実であることを証明していた。


「楓縁館のみんなは、」


 その時、長く沈黙を保っていたはるなが口を開いた。


「子どもたちも先生たちも、急に変わっちゃった映ちゃんを気味悪がって、よってたかっていじめた。汀さんは必死に守ろうとしたの。でも状況は良くならなかった。結局映ちゃんは、汀さんと一緒に楓縁館を出ていくことになった」


 はるなは唇を噛んで俯いた。自分にぜんぶの責任があるとでも言うように。


「……先ほど私は、目を覚ました君が別人のようだったと言った。正確に言えば、本当に別人になってしまったんだ。しかし相手は、自分のことを和泉映だと思い込んでいるまったくの別人というわけでもない。彼女も確かに、紛れもない和泉映なんだ。別人でありながら、別人ではない」


 汀さんは付け加えながら、ようやくホワイトボードのほうを向いた。


「いよいよ複雑になってきたから、整理しよう。便宜上、君のことを〝映〟、そして三年前に別の世界からやってきて今なお君の肉体で生活しているほうを〝はゆる〟と書き分けることにする」


 汀さんはホワイトボードに、これまで口頭で説明してきたことを簡潔に図式化して描いた。


「この三年間、はゆるの生活の面倒を見ながら、私は映の魂魄をこの世界に取り戻す方法を必死に探した。だが、ことごとく失敗した」


「汀さんが映ちゃんの魂を探してる間、はゆりんご――って私は呼んでるんだけど、はゆると私は塾の同級生としての。それから私は、はゆるには友達として親しく接しながら、映ちゃんの身体を見守り続けてきた」


 はるながよどみなく言った。私の名前を呼ぶ時には、いちいちホワイトボードの漢字かひらがなの一方を指さした。


「はるなの協力もあって、映の肉体は至って健康なまま成長している。今はアパートの一室に、はゆる一人で暮らしている。そしてついに今日、私は、君をこの世界にぶことに成功した」


 そこまで説明して、汀さんはペンを置いた。


「……ひとまず、映に知ってほしいことは以上だ」


 ――沈黙。


 どんな反応をすればいいのか、わからなかった。


 身体を勝手に奪われたことに対しては、腹を立てるべきなのかもしれない。少なくとも、私には腹を立てる権利がある、と思う。


 けれど、奪った犯人は別の世界の私自身。


 その複雑な事情が鉄の鎖となって私を押さえつけて、私はどうにもこうにも、はゆるへの怒りを爆発させることができなかった。かといって、間違えてこの世界に来ちゃったんですねそれはしゃーないかわいそうだから私の身体を差し上げましょうなんて言えちゃうほど、私の器は大きくない。


 そんなことを考えて黙り込んでいたら、私なんて一切無視して時を刻み続けていた、デスクの上のデジタル時計が、一瞬ピッと音を立てた。ちょうど正午だ。


「もうこんな時間だ。行くぞ、映」


 汀さんが急いで白衣を脱ぎ、私の手を取った。


「い、行くって、どこに……?」

「決まってんじゃん」


 汀さんの代わりに、はるなが答えた。


「取られた身体を、取り返すんだよ」

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