第23話 はゆるとのびしろくん②

 相手は新しいキャットフードを品定めするような表情で、私をふむふむと見つめました。


「無遅刻無欠席で有名なお前が、なんの連絡も寄越よこさず会合に顔を出さないなんて……珍しいこともあるもんだぜ」


 この近辺には宿なしの猫たちによるコミュニティが存在し、毎晩公園で会合が開かれていることは、私も認識しています。しかし、のびしろくんがそのメンバーとは盲点でした。


 なんだか、また惨めな気持ちになってしまいます。

 無力で、人の優しさの恩恵にあずかるばかりで、あてどもなく彷徨さまようしかない、野良猫と野良はゆる――せっかく親近感を抱いたのに、のびしろくんには向かうべき場所がちゃんとあったとは。考えてみればこの子は自分の身体を持っているわけですから、その時点で既に私の完敗でした。似た者どうしかも、なんて期待していたはずが、それは私の自意識過剰な勘違いに過ぎず、のびしろくんの眼中には最初から私など存在しなかったのです。

 はあ、魂の距離はこんなにも近いのに、なんと寂しいことでしょう。


「おーい、俺のこと見えてるー? エルンストだぜ?」


 項垂うなだれていた私は、ぶんぶんと動く短い前足が視界に入って、我に返りました。茶色の猫は、子どもみたいに生意気な笑みを浮かべています。

 しかし一向に反応を示さない私を前に、彼の顔にも次第に影が差してきました。


「マグリット……ほんとに大丈夫か? 頭でも打っちまったかよ?」


 相手は漂意のことなんて知るはずがありませんから、いぶかしむのも当然です。

 しかし、これは困ったことになりました。エルンストと名乗ったこの猫は、既に私を警戒しています。ここで本来ののびしろくんの魂を覚醒させてしまうと、さらに厄介なことになるのは不可避です。となると、私に残された選択肢は、どうにか頑張って「マグリット」のふりをすること――でも生憎あいにく、私は「のびしろくん」のことしか知っていません。しかも私がのびしろくんを知ったのはほんの一時間ほど前のことで、今のところ柔軟性と本名以外の情報は、実質皆無に等しいのです。


 さて、どうしたものか。小さな頭を一生懸命に巡らせてみるけれど、まさしく思案しあん投首なげくびといった有様です。一方的に乗り移ってきた人間の女子高校生のせいで首を放り投げる羽目になっては、のびしろくんの怒りも大噴火でしょう。


「あれ……ふ、二人して、どうしてこんなところに……?」


 その時、葉にしたたる朝露のように弱々しい声がして、見るとベンチの陰からペルシャ猫が顔を覗かせていました。その全身はのびしろくん以上にほわほわで、のびしろくんとは正反対の真っ黒です。


「よお、ベルジェ」人間のおじさんみたいな姿勢で地面に腰を落としたエルンストが、ペルシャ猫に向かって言いました。「そりゃこっちの台詞だぜ。あんた、この公園の所属じゃねえだろう?」


「わっ、私はいつも通りマグリットくんを尾行……じゃなくてっ、偶然通りかかっただけで……エルンストくん、あの、お久しぶり」


 心配になるくらいの慌てぶりから、ベルジェのマグリットに対する感情は鈍感と言われる私にさえも想像できました。一方、エルンストは耳の裏を足で器用にぱたぱたきながら、「こいつの様子が、どうも変なんだ」と首を傾げました。


「え……?」途端に、ベルジェは驚愕と困惑の入り混じった表情を顔に張りつけました。


「そんなっ、嫌だよマグリットくん!」


 かと思えば、にわかに私の頭を前足で抱きしめ、揺さぶり、こねくり回しました。


「私は来る日も来る日も朝も昼も夜もマグリットくんたった一匹だけを想い続けてきたのに、私の名前も一緒に過ごした思い出もなにもかも忘れちゃったなんて、そんなのあんまりだよマグリットくんっ!!」

「落ち着けッ!!」


 しっぽに火が着いたかのように声を引きつらせていたベルジェでしたが、エルンストの一喝により正気を取り戻しました。けれど私を凝視する瞳は、ぞっとするほど炯々けいけいとしています。私は頭をぶるると振って、息を整えました。あと数秒、ベルジェに押さえつけられていたら、呼吸困難で倒れていたところです。


 どうもベルジェの片想いは感情が過多で、本来関係ないはずの私まで肩が重いです。私は彼女からそっと視線を外しつつ、のびしろくんことマグリットにはちょっとした忠告が必要かもしれないと腕を組みました。人間の世界にはベルジェのような女の子を端的に言い表す言葉がいくつかあるのです。


「俺は様子が変としか言ってねえよ」呆れたように言って、エルンストがくるりときびすを返しました。


「こういう時は、あのてもらうのがいちばんだ。行くぞマグリット」


 きびきびと歩き出したエルンストを、私は慌てて追います。どこへ向かうと言うのでしょう。

 軽率についた嘘がいつしか大事になっていたみたいな気分がしてきて、わずかに胸の鼓動が速まります。無言で身体の真横にぴったりくっついてくるベルジェには聞こえないように、私はそっと息を呑みました。


    ※  ※  ※


「いいかい、マグリット……こっちを見るんだ」


 私は大きな両手に抱かれて、赤ちゃんのように持ち上げられています。こうなってしまうと猫としてはどうしようもありません。


「じーっと……俺の目を見て……よし、偉いぞ」


 文字通り目と鼻の先には、人間の男性のお顔があります。見たところ私と同い歳くらいだけれど、その顔立ちは大変に端正で、すべてのパーツが完璧に調和しているのです。

 彫刻刀でなぞったようにはっきりと通った鼻梁びりょうに、いわく言いがたい色気を醸し出す薄い唇。青みがかった前髪から覗く切れ長の目は理知的な雰囲気をたたえていて、渡くんの変態ちっくな目つきとは比ぶべくもありません。おまけに透き通る肌には毛穴のひとつも見当たらなくて、羨ましくなってしまいます。

 そんな男性に真正面から見据えられて珍しくぽやぽやとしていたら、


「先生、マグリットの容態はどうだ?」


 エルンストの声がしました。見ると、彼は祈るような姿勢で、宙ぶらりんの私を見上げています。その隣には今にも泣き出しそうなベルジェ。「マグリットくん! そんな高いところ危ないよ!」


 危ないもなにも、これは私の(そしておそらくマグリットにとっても)まったく意図せざる状況です。

 とはいえ、この人になら煮るなり焼くなりお湯をかけて三分待つなり好き勝手されても構わないと思えてきました。今の私は人間に抵抗するすべを持たず、しかもあろうことか一糸まとわぬ全裸。まあ猫ですから真っ白な毛が全身を覆ってはいるけれど、無防備の極みであるのは間違いないのです。

 ああ、このまま黄昏たそがれゆく公園の隅で、私は強引に押し倒され、ちゅうちゅうぴったんされてしまうのでしょうか――。


 その時です。


「マグリットじゃない……?」


 ふいに、お兄さんが目を見開きました。


「は……はあ? どういうことだよ?」エルンストの困惑しきった声が下のほうから聞こえます。


「いや、そんなはずは……だが感じる。彼のではない、別のなにかを……」

「おいおい待てよ先生、そいつはマグリットじゃねえってか?」

「違う。この子は確かにマグリットだ。マグリットの中に、彼とは異なる、別の魂のようなものがえるんだ」


 私の背筋を、冷たい汗が伝いました。


 お兄さんはなぜか、のびしろくんの中にいる私の存在を見抜いたらしいのです。そしてなにより――どうして、人間のお兄さんが猫のエルンストと意思疎通できているのでしょう。


「マグリット。もう一度、俺の目を見てくれ」


 クエスチョンマークを頭上にぷかぷか浮かべて唖然としていると、お兄さんの顔が急接近してきました。

 途端、紅茶に溶ける角砂糖のように、景色が歪み始めました。


「君は――本当に、マグリットなのか?」


 お兄さんの声らしき音が、遠くのほうで鳴っています。


 私はどうにか正気を保とうと、息を大袈裟に吸ったり吐いたりしてみたけれど、脳は波に揉まれる船のようにぐわんぐわんと揺れ続けています。


 そうして、だんだんと視界が狭まっていって、意識が閉じていくのを――この時の私は他人事みたいに、見届けるしかなかったのです。

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