第22話 はゆるとのびしろくん①

 結局、煎相いりあい駅で私を待ち受けていたのは、なんらかの要因で音が変わっているオルゴール、ただひとつでした。

 汀さんと香椎さんがそれぞれ調べてくれている、おみくじとオルゴール――私にはなんの脈絡も見えないけれど、その二つが身体奪還への鍵となってくれることを切実に祈ります。


 さて、駅を後にした私ですが、すぐさま香椎さんの身体を離れて新しい身体に乗り換えました。いつしか日は傾き、ただでさえ細くしなやかな四肢が、不気味なほど長い影をアスファルトに投げかけています。


 せっかくなので、私は彼らがよく威嚇の時にとる姿勢を体験してみることにしました。客観的に目にする他者の行為を自らも身をもって体験できるというのが、漂意ただよいという特技を持つものだけに許された特権なのです。見よう見まねで、両手足を――ではなく、ぜんぶの足を目いっぱいに伸ばして、頭を低くして背中を丸めました。私の動きに合わせて、地面の影も弓のようにしなります。


 なるほど、確かに身体が大きくなった感じがします。そのうえ、背中の筋肉の伸張に伴って、マッサージを受けたみたいに全身がぽかぽかと温まってきました。えも言われぬ気持ちよさに身をよじり、私は思わず大きなあくびをしました。


 にゃあああ、と、満足そうな鳴き声が喉から出ました。


    ※  ※  ※


「やーん! かわいいー!」

「たい焼き、ちょっと食べる?」

「食べさせていいのかな?」

「しっぽのところだから大丈夫じゃね?」

「そっか、そうだね!」


 駅の近くに「それいゆ」という名のお洒落なたい焼き屋さんがあります。その店先で足を止めたところ、並んでいた女子高生の集団に見つかって、こんなことになってしまいました。

 扉のガラスに反射する猫は、私とは真逆のキラキラした女の子たちに揉みくちゃにされながら、むすっとした表情でこちらを見つめ返しています。ピスタチオのような瞳は左右で色が違っていて、そして柔らかい全身は、毎晩ミルクのお風呂に浸かっているのかと思うほど真っ白です。


 漂意が人間以外にも有効であると知ったのは、力を得て数ヶ月が経った頃。きっかけは、ほんの好奇心でした。近所のスーパーマーケットの店頭で飼い主の帰りを律義に待っていた犬に、漂意が成功した時の衝撃たるや。筆舌に尽くしがたいものがありました。


 それ以来、鳩だったり、蛙だったり、様々な動物を勝手に実験台にして調査した結果、脳を持ち自我を備えた対象であれば漂意は可能であるとわかったのです。

 別種の動物に漂意を行うのは人間に対して行うよりも数倍疲れてしまうので頻繁にはできないけれど、気分転換になるのでおすすめです。いつぞや真夏にアスファルトの上のミミズに乗り換えて危うく本当に死にかけたのも、今となっては、素敵な思い出――なわけがありません。


 それはさておき、意外にも猫の身体に入るのは初めてのことです。別に意図的に避けていたとかではなく、むしろ私は好きな動物を聞かれれば逡巡しゅんじゅんののちに猫と答えることが多いのに、今日まで機会がなかったのです。


「にゃんこー! またねー!」


 女の子たちは手を振りながら去っていきました。私の足元には、たい焼きのしっぽだけが置いてあります。一瞬、前足を伸ばしかけたけれど、受漂者となってくれているこの雄猫の体調を案じて、食べるのはやめておきます。


 ……今さらだけれど、「しっぽのところだから大丈夫」とは、いったいどういう理屈でしょう。


    ※  ※  ※


 私は再び夕暮れの道を歩いて、やがて公園に到着しました。ひとまず、今夜はここで野宿です。猫なので野宿という概念はない気がするけれど。


 別に香椎さんと一緒にいてもよかったし、彼女のほうは「映さんとお泊まり! したいしたいしたい!」と言ってくれたのですが、香椎さんにこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかないので、駅前で偶然出会った野良猫に漂意を行いました。


 ここで声を大に――して訴えるまでもないことだけれど、私が香椎さんを離れたのはあくまで身体を借り続けることに対する罪悪感と反省が理由であって、決して、香椎さんの中で子どもみたいに号泣してしまったことが今になって急に恥ずかしくなったとかではないのです。まあ確かに私が人前で泣くというのは僧侶がおなかを抱えて笑い転げるのと同じくらい滅多にないことだけれど、涙を流すという行為は人間にとって重要な感情表現および非言語的コミュニケーションの手段のひとつと理解しています。香椎さんと過ごすのが気まずくて、やむを得ず猫に乗り換えた……みたいな事情は断じてないのです。断じて。


 それにしても、猫という動物は私の想像を超えて柔軟です。さっきから身体を慣らすために、四肢を思いっきり地べたに広げて絨毯のような姿になってみたり、左後足だけで立ってバレエダンサーの真似事をしてみたり、仰向けになってブリッジの姿勢をとったりしていますが、身体が伸縮自在すぎて我ながらびっくりしてしまいます。このふわふわの和毛にこげの下は、ぜんぶグミでできているのでしょうか。


 そうです、せっかく受漂者になってくれてるわけですし、この名もなき白猫に素敵な呼び名を授けましょう。この身の伸び具合と、今後もっともっと成長してほしいという私なりの願いを込めて、彼、もとい私は、たった今から「のびしろくん」です。


「おい、」


 そんなことを考えながら、足を身体の下に収納してツチノコの物真似などをしていたら、ふいに声をかけられました。

 驚いて視線を上げてみると、高級な紅茶のような毛色をした猫の顔が、目の前にありました。


「……お前、マグリットだよな?」

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