第6話

翌朝五時。重たくなった頭を抱えて起きると、既にリクが台所に立ちやかんに湯を沸かしていた。


「もうすぐ用意できるんで、珈琲飲んでいきません?」

「ああ、いただくよ」


淹れたての珈琲の香りがふわりと立ち込めていき、ひと口啜るとその柔らかな苦味に舌が落ち着いたのか、優しくため息が出た。


「ジュートさん今度画廊に行きませんか?」

「絵画が好きなのか?」

「はい。神田の古書通りにあるビルの中で催しされているんです。時間取れそうかな?」

「また連絡するよ。」

「ナツトさん、気にかけていますよね」

「そうかもな。まだ若いし何かと突いてくるタチだしな」

「昨夜の事は、ここだけのことにしておいてください」

「彼奴が知ったら俺の首をねるかも。なんてな」

「今回はとっておきの思い出ができた。また来てください」

「気が向いたらな」


私は彼の顔が見れなかった。照れ隠しでもなく疎外感でもない。寧ろ後を追われるのがたまらなく嫌だったのだ。私の背後には今、無彩色の影が取り巻いている。それはリクを抱いた時についた爪痕の様なものだった。一夜にして心が動いたことには偽りはないが、自分の手の中に支配しようなんて以ての外だ。


ローズバインに居た頃の自身の面影が重なり、その延長線上で彼の身体に手を伸ばしただけだった。もしかしたら彼は私に対して好意を抱いているのは間違いはない。しかし、相手の思いなど甚だしいものなのだ。これを知ってしまったら残忍で恐ろしい仮面を被った人間だと思われるだろうが、実の本性をというとそれも含めて私なのだ。


異国の激戦地で見てきた悲惨な光景を今でも抱えながら生きている自分だからこそ、どんな相手が来ようと身を構えてしまうのだ。できれば彼やナツトの様にもう少し気晴らしができて闊達かったつかつ自然体に振舞える様になりたいものなのだ。


輪廻邂逅。


もし生まれ変わったなら、別の世代でまた人間として産まれてこの地で育ち他者とともに共存しあえる争いのない日本国が良い。

そして今度は異性を愛し互いに尊敬しあえる伴侶と巡り会いたいものなのだ。

私は人間として生きているからこそ我儘なのかもしれない。此のことがナツトに気づかれたりもしたら,何時もの様にやきもちを焼くだろうな。そんなことを考えながら歩いていると、大塚の自宅の前に着いていた。


家の中に入るとナツトは出かけている様だった。時計に目をやると七時過ぎている。今日は出勤の日で遅番の筈だが、こんな時間から何処に出歩いているのだろうか。部屋着に着替えて押し入れから布団を取り出し、床に敷いて横になった。時計の針の音だけが部屋中を響いて、私は次第にうとうとと眠気が現れて、深い眠りの中へ入っていった。


──何処かの海の中だろうか。辺りが青くて清らかな海の底に珊瑚礁や海水魚が気持ちよさそうに泳いでいる。魚達は私に近づいてまるで一緒に泳ごうと誘ってきている様子だ。私は白い衣服についている長い裾や袖をひれに見立てて共に別の場所に泳いでついて行く事にした。


なんて心地が良いんだ。


奥に突き進んでいくと、見た事の無い色鮮やかな深海魚がこちらに手招きして、一緒にある場所へ連れていくと告げてきた。再び水面に近い所へ行くとウミガメが優雅に泳いでこちらを向いては魚達の様に綺麗な泳ぎをしていると褒めてくれた。

このまま海の中で過ごしていたい。


すると沖の方にある海岸の上で私の名前を呼んでいる誰かが水面の影に揺れながら映る姿を見たので、魚達に別れを告げて、海の外へと向かった。水面から顔を出した時には誰の姿もなく、私1人が浮いている状態だった。

すると後ろから私の名を呼んでいる人物が聞こえたので振り返ると、リクがこちらに向かって泳いできた。彼は私に抱きついてずっと探し回っていたと話してきた。


「二人で海の中へ消えてしまおう」


彼が耳元で呟くと突然突風が吹き荒れ出して波が勢いよく私の足を掴んで海の中へ引きずりはじめようとした。必死になり岸へ向かっていくら泳いでも辿り着かない。私はこのまま離岸流の渦の底へ沈んでしまうのだろうか。


──十時。ふと目を覚ますと部屋の天井がくっきりと視界に入っていた。その横にはナツトが足を抱え込んでしゃがみながら私を眺めていた。


「帰ってきて、いたのか?」

「うん。ジュートもおかえり。」

「お前朝早くから何処へ行っていたんだ?」

「散歩だよ。なんか早く目が覚めてしまってね。天気も良いし折角だから外の空気でも吸いに行こうと思って行ったんだよ。」

「そうか。低血圧のお前にしては珍しいが、良い気分転換にもなっただろう」

「ところでさ……福部さんとはどこまでしたの?」

「どこまでって……添い寝しただけだ。それ以上の事は無い」

「匂う」

「何をだ?」

「ちょっとうなじ嗅かさせて……うん。最後まで、したね」

「頸を嗅いだだけで判別できるなんて、お前は犬か?」

「犬だなんて失礼な。……本当の事言って。彼とどこまでしたの?」

「ひと……ひと通りは行為を致しました」

「やっぱり。途中で引き裂くなんてジュートがするような行動じゃないし。それで、どう相手から誘われたの?」

「向こうは、僕を必ず好きになると言ってきた。間には受けなかったよ」

「当たり前だよ。彼だって本気じゃない。ジュート、これから向こうは何度か君を狙ってくるよ。何考えているかはわからないけど、もう身体の関係は持たないで」

「言われなくてもわかっている。」


何かが否めない。


ナツトの忠告は守ろうとしたいが、彼の中にある"空間"がやけに澄んだ空の香りに包まれて媚薬に近いものに感じてしまうのだ。

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