走れ! 【一話完結】

大枝 岳志

走れ!


 スターターボタンなんて便利なものは付いていない。

 昔ながらの、鍵を挿し込むタイプの今となってはオールドカー。

 大学時代から乗り続けている、僕の愛車「フォルクスワーゲン・ポロ6N」は、今となってはほとんど街で見掛けなくなった、時代遅れのコンパクトカーだ。


 さぁ、行こう。今日こそは僕を職場へと運んでくれ。

 指先に魂を込めて、僕はイグニッションを回した。


 ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン


 やはりダメか。今日こそは、と思ったのだがいくらイグニッションを回してもエンジンは掛かりはしなかった。

 これでもう五日目だ。

 エンジンを掛けようとする音で午後勤の妻が目を覚まし、玄関から飛び出して来た。案の定何かぼやいているようだったが、敢えて無視を決め込んでいると運転席のドアを開けられてしまった。


「あなた、うるさい。朝から近所迷惑だし、やめてよ」

「分かった……会社行って来るよ。あの、じゃあ」

「聞いてる? そろそろ新しい車来るんだし、もういい加減諦めてよね。いい? 約束してよね?」

「なるべく、そうだな……前向きに考えてみるよ」

「ポンコツなのは車だけにして欲しいわよ、全く」


 痛烈な言葉を浴びせる妻に目もくれず、と言えば格好は付きそうだが、実際には気不味くて目を合わせることが出来ずに、僕は車を降りてトボトボと駅へ向って歩き出した。


 機械とは実に不思議なものだ。

 新車のゴルフ購入を決めた翌日、まるで寿命を迎えたかのようにポロは動かなくなった。


 ポロはゴルフほど大きくもなく、かといって日本車のコンパクトカーほど造りはチープではない。

 それでいて無骨さを感じさせない可愛らしいフォルムのこの車を、僕は長年に渡り愛し続けていた。


 近頃ハンドルを離すとやたらと右に偏るので、ディーラーへ持って行くと「寿命ですね。これをレストアするなら新車の方が正直安上がりです」とあっさり言われ、いくつか新車の見積を提示された。

 妻は営業マンに向かって「この人を説得して下さい」と懇願し、僕はついにとっ捕まった犯人のような気分でゴルフのローンを組んでしまった。


 簡単に言えばゴルフはポロの一つ上のグレード車だ。ゴルフの後発であるポロユーザーから言わせればゴルフは兄弟車。ゴルフユーザーから言わせれば後出しで小ぶりのポロなぞゴルフのパチモノ。

 まぁ、確かにそうなのだけれど、そうかもしれないけど、やっぱりゴルフとポロでは勝手からサイズから乗り心地から、何から何まで違うのだ。 

 それでも、現行のポロを買う選択肢は頭に無かった。

 理由は単純で、ポロはサイズが大きくなり過ぎたのだ。


 翌週。エンジンの掛からなくなったポロのことが頭から中々離れず、車に詳しい同僚に話を聞いたりネットを散々漁ったりしたのだが、これといった解決策はもう何も見当たらなかった。

 バッテリーも、プラグも入れ直した。

 けど、ポロは眠ったままだった。


 そんな日がさらに数日続いた昼休み、何気なくスマホを手に取ると妻から鬼のような着信が残っていた。

 咄嗟に家でも燃えたのかと思い、すぐに折り返した。


「何かあったのか? 大丈夫なのか!?」

「やっと繋がったわね! ねぇ、びっくりして欲しいんだけど、子供、出来たの! やっと出来たの!」

「何だって!」


 僕は喜びのあまり椅子から立ち上がり、立ち上がったまま椅子に座るのがもう億劫になり、そのまま早退けし、飛ぶようにして家に帰った。  


「身体、大丈夫なのか!?」

「当たり前じゃない」


 玄関先で僕を出迎えた妻としばしの間抱き締め合い、新しい命の息吹に二人で華を咲かせた。

 妻と出会ってから十五年。紆余曲折の不妊治療を乗り越えた妻のおかげで、ようやく僕達が親となる日が訪れたのだ。

 僕はこの喜びを誰に伝えようか迷い、迷った挙句、親よりも先にエンジンの掛からない車へと乗り込んだ。


 ハンドルを叩き、僕はこの車に青天井の喜びを伝えた。 

 当時はまだ彼女ですら無かった妻を助手席に乗せ、焦りで目を泳がせつつ何とかドライブした思い出が蘇った。

 初めてドライブした日。確か、箱根へ向かってるはずが着いた先は何故か山梨の清里だった。

 あの時の手汗は本当に酷いものだった。その汗はきっと、このハンドルに未だに染み付いてるに違いない。 

 すぐ先に迫った納車と入れ替えに、この車は引き取られてしまう。 

 本当にこれが最後になるかもしれない。そう思うと、僕は自然とキーを挿し込んでいた。


 ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン


 走れ。


 ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン


 頼む、最後に僕達を祝福してくれ。


 ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン


 おまえのおかげで、僕達は幸せになれた。家族になれた。だから、せめて最後におまえと一緒に走らせてくれ!


 ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン、ウォン   


 僕だけが幸せなまま、おまえを終わらせたくはないんだ……。


 「頼むよ……」


 気が付くと、僕はハンドルに突っ伏しながら独り言を呟いていた。

 ついにセルモーターが回らなくなり、車はいくら鍵を回しても何の反応も示さなくなった。この瞬間、ついに長年に渡って愛したこの車が寿命を迎えだのだった。

 いつの間にかガレージに立っていた妻が、呆れた顔を浮かべながら助手席へ乗り込んで来た。

 バスン!  とドアを閉める重たい音だけは、未だ実質剛健なままだ。


「あなたに出会ってから、初めて二人きりになれた場所がここだった」


 ぶつくさ文句でも言うとばかり思っていた妻は、グローブボックスを見つめながら柔らかに微笑んだ。


「確か、ダッシュボードの中は僕の好きなカセットテープでいっぱいになってたわね」

「それと、化粧道具やキャンディも」

「そうそう。何でもかんでも僕の好きなものを入れてたっけ。朝買ったハンバーガーが、夜になって出て来たり」

「捨てろよって言ったけど、君は何が何でも捨てなくて、でも最後は結局、俺が食べたんだっけな」

「そうだったわね。雨が降って水溜りに入ると、すぐにエンストしたりして。ボロクソワーゲンのボロ! って、わたし怒ったわ」

「あの時、トヨタにしなさいよって君に怒られたんだよな」

「本当、懐かしいわね。最後に、この車に乗って家族三人でドライブしたかった」 

「そうだな……本当に」


 僕はふざけ半分で、イグニッションを回してみた。

 ほら、こいつはついに寿命を迎えたんだ。

 まるで、子供が出来てほっとしたみたいだよ。

 こいつはもうすぐ引退だからな、ちょうど良かった。

 そんな台詞を吐くつもりだった。


 しかし、それまであれだけ頑固に掛からなかったエンジンが、何と一発で掛かってしまったのだ。


「おい。嘘だろ、なんで」


 突然の出来事に戸惑った僕は、再度エンジンを掛けるつもりで一旦エンジンを停止させてみようと思い、鍵を手に取った。

 その途端、妻が叫んだ。


「切らないで!」


 僕は鍵を手にしたまま、逡巡した。だが、妻の追い討ちを掛けるような声で僕は吹っ切れた。


「お願い。ねぇ、走って」

「あぁ。よし、分かった」


 ポロは今までの状態がまるで嘘のように、静かにガレージから滑り出した。

 突然停車する可能性もあった為、僕はなるべく丁寧なアクセルワークに意識を集中した。 

 住宅街の最果ての角をゆっくりと曲がり、段差の大きな線路を突っ切る。

 内心肝を冷やしながら、それでも車は特段の違和感を感じさせる事なく走り続けた。

 しかし、国道に出る手前でハンドルに妙な振動を感じた。

 その振動は信号待ちの停車中に更に大きくなり、けれども走り出すと多少は感じなくなった。

 僕は、神に祈るような気持ちで呟いた。


「走れ」


 どうか、走ってくれ。初めて僕達を連れて行った、あの日のように、どうか、迷いながらでいい。走ってくれ。

 国道に出て、二車線の左側をゆっくり、真っ直ぐ走る。しかし、数百メートルも走らないうちに車の振動は徐々に大きくなって行った。

 妻は唇を噛み締めながら、それでも力強くじっと前を見つめていた。

 僕は、思わず声を震わせて叫んだ。


「走れ、走れ、走れ!」


 すると同じように、妻も叫んだ。


「お願い!  走って!」


 すると、それまで車体をガタガタと震わせていた振動がピタリと止んで、車はスムーズに走り始めたのだった。


 僕は、大分余裕のない声で尋ねた。


「なぁ、どこまで行こうか!?」


 妻は前方を指差し、笑いながら叫んだ。


「行けるとこまで!」


 僕は何故か途端に懐かしい気持ちになり、笑った。 

 妻もまた、懐かしい顔で笑っていた。


 今度は何の躊躇もなくアクセルを踏み込んだ。アクセルに応え、心地良くエンジンが鳴る。風景が緩やかに加速する。

 道に迷う前に足を止めてしまうかもしれない僕達の思い出は、唸りを上げて颯爽と走り出し、街を駆け抜けた。

 止まってしまうかもしれない。けれど、絶対に止めたくはない。

 それは妻になった彼女を初めて車に乗せた日の僕の気持ちに、とても良く似ていた。

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