双木澄怜Epilogue

はるより

エピローグ

 双木澄怜は夢を見ていた。

 二羽の赤い小鳥を飼う夢。

 夢の中で澄怜は、鳥籠の中で愛らしく囀る小鳥たちが余りにも窮屈そうに見えたものだから、つい鳥籠の扉を開けてしまったのだ。

 直後、一羽がいつの間にか開いていた部屋の窓から外へと飛んで行ってしまった。

 澄怜は慌てて窓に駆け寄るが、最早逃げた小鳥の姿は何処にもない。

 せめてもう一羽は決して逃すまいと鳥籠を抱き締めるが、いつの間にか腕の中をすり抜けた赤い鳥は、やはり窓から曇天の空へと消えてゆく。

 手を伸ばして、叫んだはずの『待って』という声は、誰にも届く事はない。


 そして直後、ぼやけた視界に入ったのは見慣れた六畳半の部屋の天井と、力なく持ち上がった己の腕だった。


「……。」


 双木は枕の傍に置かれた携帯端末を確認する。

 宮ヶ島に送ったメッセージには、未だ既読が付いていない。


 結局あの後、宮ヶ島と吾妻が二次会の場に現れる事はなかった。

 浮かない顔をして離席から戻って来た水田に何か彼女たちの事を知らないかと尋ねると、『二人は急な捜査に駆り出されたから、残念だけど此処には来られないって』と寂しそうに笑って見せた。


 澄怜は知っている。

 彼女があの笑みを浮かべるのは、相手を傷つけまいとしている時であると。

 だけど、あの場でそれを問いただせば……か細く残っている希望すら潰えてしまいそうで、澄怜は納得した振りをする事しかできなかった。


 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、やけに鮮やかな色を映し出す液晶画面。

 澄怜はアドレス欄から吾妻の名前を選び、通話のアイコンをタップする。

 機械的な呼び出し音が何度か続いたあと、素っ気ない留守番電話のアナウンスが流れた。


 澄怜はベッドから立ち上がり、洗面台に顔を洗いに行く。

 鏡に映った自分の顔は酷いもので、眠りながら泣いていたのか、涙の跡が残っていた。


「……あんな事件の後だから、無理もない。

 ってことにしておこう」


 斗縞市に生きる人々の中から、先日の惨劇の記憶は消えない。

 多大な精神的負荷を被った澄怜も、時折あの日の光景がフラッシュバックするという状況だ。

 だが、それでも確かに生きている。

 きっと蜘蛛の糸のような奇跡を掴み続けて……澄怜と仲間達は筆舌し難い地獄から生還したのだ。


 冷たい水で顔を洗い、傍に用意していたタオルで顔を拭うとそのまま身支度をする。

 扉に鍵をかけて外に出ると、すぐ目の前が斗縞市警察庁公安局。つまりは澄怜の職場である。

 通勤時間五分のこのアパートは、元は特殊捜査官を隔離・監視する事が目的の住居として借り上げられた物だったが……慣れて仕舞えば住み心地も悪くないので、澄怜はもう暫くはここのお世話になるつもりだった。


『備品管理課第2倉庫』とプレートの上に味気のない文字が並ぶ扉を押し開き、わざと明るい声で呼びかける。


「おはようございま〜す!」

「おはようございます。今日も無駄に元気ですね、双木さん。」


 ほんの一ヶ月と数日前に配属されたばかりの久我が、並べられたパイプ椅子に座る事もなく、たった一人佇んでいた。

 久我はいつも通りの受け答えをしていたが、扉を開いた澄怜の顔を見て、ほんの少し安堵の表情を浮かべたようにも感じられる。


「……ご主人とあずまちゃんは?」

「少なくとも今日は、まだ顔を合わせていません。」

「そうですか。」


 澄怜はざわつく胸中を無視して、机の上に鞄を下ろした。

 時計を確認すると丁度、針が通常日の出勤時間である八時半を指したところだった。

 同じく時計を見た久我も、諦めたように机に着く。


 端末にも連絡はなく、誰からの作業指示もないので……久我と顔を合わせた澄怜は、机の隅に積まれた大量の書類のファイリング作業を行う事にした。

 久我永海が記憶の処理を行った斗縞事件とは違い、今回は山程の痕跡が残っている。

 表向きには災害として処理されることになったとしても、澄怜が身を置く『神話事象対策課』では、冒涜的な存在を無視するわけにはいかない。

 いつか再び起こる事件を一秒でも早く解決し、一人でも多くの人々を守るために知識を蓄えて、後に繋げる必要があるのだ。


 黙々と作業を行い、やがて二時間が経過しようとしたところで出入り口の扉が開いた。


「遅くなってごめんなさい、二人とも。」


 声の主は水田だった。

 彼女は後ろ手に扉を閉めると、並んで作業を行っていた澄怜と久我の向かいに一つパイプ椅子を移動させ、そこに座る。

 そして二人の顔を見ながら、はっきりとした口調で言った。


「宮ヶ島さんと吾妻さんが、殉職したわ。」

「え……。」


 そんな風に声を漏らしたのはどちらだったのか、澄怜には分からない。

 ただ水田の言葉が、現実味のない温度で耳から脳へと流れ込んできていた。


「捜査中にカラーレッドの人間と交戦になって……そのまま。けれど脅威は二人が倒してくれたって。立派な最期だった。」


 澄怜はじんと痺れたような思考の中で、ようやく舌の上に転がり出た言葉を吐く。


「殉職って、死んだって事、ですか。」

「……。その通りよ。」


 表情を曇らせた水田が、確かに頷いた。

 隣の久我が何かを言っているのが聞こえたが、その言葉の意味は理解できない。


 ……二人の死は彼女達が現れなかった昨日の夜から、ずっと澄怜の頭の中にこびりついていた一つの可能性であった。

 特に吾妻は行動を共にしていた頃から、自身の死に場所を探しているという事は側から見ても明らかだった。

 それと同時に、彼女が抱える苦悩が澄怜の手で消し去ってやれるような単純なものでないという事にも、澄怜は気が付いてしまった。

 だから、彼女に『生きていてほしい』という気持ちは伝えながらも……強く引き止める事は出来なかったのだ。


 宮ヶ島も、吾妻との間に何か大きな蟠りを抱えている事は分かっていた。

 しかしただそれだけで……幾らでも話をする機会があったはずの彼女の気持ちを、澄怜が理解する事は終ぞ出来なかった。

 澄怜の事を『遠すぎる』と表した宮ヶ島。

 自分たちの間にどんな距離があるのかすらも汲み取れないまま、彼女は逝ってしまった。


 呆然と虚空に視線を向けていた澄怜を見て、ハッと表情を変えた水田が、机から身を乗り出して彼女のことを抱き寄せる。

 それまで澄怜は気が付かなかったが、どうやら自分は涙を流していたようで……机に無造作に広げられた書類の上にはまるで、雨が降ったかのように点々と染みが浮き上がっていた。


 ああ、大切な書類を汚してしまった。

 これから誰かを救うかもしれない大事なものを、などと何処か他人事のように思考が巡る。

 ……どうして自分は、こんなにも正気なのだろうか。

 いっその事、誰かの死すらも気に掛からない程に狂ってしまえた方が、幸せかもしれないのに。

 ……どうして自分が、いつものうのうと生き残ってしまうのだろうか。

 誰かに助けてもらわなければ、誰かの存在に縋らなければ、立ち上がることすら出来ない弱い存在の癖に。


「澄怜、大丈夫……大丈夫よ。」


 水田が優しく名前を呼び、澄怜の髪を撫でる。

 触れた肌から伝わってくる体温が、目の前の彼女がまだ生きている事を伝えてくれているようで……澄怜は、もはや感情を律することが出来なくなっていた。


「う……うわあ、あぁぁ……っ!」


 まるで子供のように声を上げて泣き喚く。

 それは三年と少し前のあの日、目の前で『全てが終わった時』の再現のようであった。

 あの頃の双木澄怜とは別の人間になりたくて、今の自分になったというのに……本質は何一つ変わる事が出来ないままだ。

 それが悔しくて、世界が投げかけてくる嘲笑を掻き消したくて、澄怜は叫び続けた。


 ……どのくらいの間、そうしていたのだろうか。

 いつの間にか久我の姿は無く、部屋の中では澄怜の嗚咽と、もう一つ微かに鼻を啜る音だけが聞こえていた。


「……お願い、美果。」


 澄怜はか細く掠れた声で呟いた。


「あなたは、あなただけは。どうか、私の側から居なくならないで……。」


 水田は、澄怜を撫でる手を止める。


「それは……こんな仕事だから保証はできないわ」

「……。」


 そうだよねと自嘲気味に返し、身体を離そうとする澄怜。

 水田はその頬を両掌で包み、互いの額をそっと合わせた。


「でも、死ぬ時は一緒に死んであげる。あなたが死ぬまで私は死なない。それでいいかしら?」


 澄怜の充血した瞳から、再び大きな涙がぽろりと溢れる。


「そんなのずるい。私、無茶出来なくなるじゃん……。」

「ええそうよ。私はずるいから、澄怜の為にあなたの良心だって利用するわ。」

「……約束。美果も、ちゃんと守ってね」


 澄怜と同じく真っ赤な目の水田は、優しく微笑んで見せる。

 それに応えるべく、澄怜はシャツの袖で顔中を拭うと、今度は自分から水田を強く抱きしめた。

 そうして数秒の間、彼女の存在を確かめた澄怜は、何も言わずに水田の体を解放する。


「班長に、悪いことしちゃいましたね。」

「ええ。彼だってショックを受けてる筈だから、ケアしてあげないと。」


 努めて普段通りに戻ろうとする二人の目に、もう涙はない。

 そして机の上の濡れてシワシワになった書類をどう片付けようかと悩んでいる澄怜に、水田は言った。


「ああ、あとね。久我くん、班長じゃなくて室長になって貰うつもりなの」

「え?」


 耳を疑う澄怜にもう一度水田は、室長になって貰うつもりなの、と言い聞かせる。


「ほら、今回の一件で私が局長に上がらざるを得なくて……澄怜は特殊捜査官だから立場上、役職には就けないでしょう?」

「そうですね。」

「残念ながら現状うちの課は私と澄怜、久我くんの三人体制だから、室長が居なくなると課自体を解体せざるを得なくなるのよね……特殊な課だから直ぐに増員出来るとは限らないし。久我くんは新社会人とは思えないほどしっかりしてるし、大丈夫かなって。」

「……。いや、期待の新人ですね。ほんと、色んな意味で……。」


 配属直後に地獄のような事件を担当させられ、その後病院送りになったかと思えば、退院直後に役職に就かされようとしている新社会人。

 様々な偶然と要因が重なった結果だとはいえ、前途多難という文字をその身で表すようなスタートダッシュである。


「じゃ、自分は部屋から追い出した責任を取って班長……じゃなかった、室長候補を探して来ますね。」

「お願いするわ。困った事があったら、連絡して。」

「了解!」


 澄怜は部屋の外に出て、ひんやりとした廊下の空気を吸い込む。

 自分自身が弱い人間である事は、救いようも無い事実だ。

 だから今はそんな自分にもできる事……目の前の二人の上司を支える事だけを考えようと、澄怜はそう思った。


「あの二人には、自分の事でぐずぐず思い悩まれて喜ぶような趣味は無いだろうしな〜。」


 宮ヶ島と吾妻にべちゃべちゃに泣き付いて気持ち悪がられる想像をしながら喫煙所に向かうと、ベンチにぼんやりと腰掛け、火の付いていない煙草を咥えたままの久我の姿があった。

 彼は澄怜の存在に気付くと、軽く会釈を送ってくる。


 澄怜はベンチの隣に設置されている自販機で、コーラとマテ茶を購入し、久我の目の前でぶら下げてみる。

 そして無言でコーラを取った久我に苦笑しながら、隣に座った。


 途方も無い大きな傷を背負ったままの街。

 その頭上に広がるのは、雲ひとつない抜けるような青空だった。

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双木澄怜Epilogue はるより @haruyori

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