第52話 マリーゴールドのような笑顔

 心を吹き抜ける風があった。

 暖かくも肌寒く、躍動をはらんでいながらも凍りつくような感覚だった。

 

「……水無瀬雪葉」


 気づいたら、目の前にいる女の子の名前を呟いてしまった。

 それは彼女が渚紗じゃないことの確認でもあり、彼女自身を認識することでもあった。


「わたしの名前を知っているとは、これなら君が票を投じるべき生徒会長候補の名前を教える手間がはぶけたね」

「お前はうちの一年生だったのか……」

「わたしは古坂高校の一年生だけど、先輩と出会った日は違うよ?」


 水無瀬が生徒会長候補云々を口にしたのは、彼女は楽々浦と同じく、生徒会長選挙に立候補しているからだ。

 それを知っているのは、さっきの生徒会長候補たちのポスターを貼る手伝いをしていたとき、彼女のポスターもあったからだ。


 ―― 俺は古坂高校の生徒だけど、この制服は違う。

 

 俺が水無瀬に初めて会った日に、矛盾した感情を誤魔化すための言葉だった。

 それと同じような返事を、水無瀬がしてきたということは……。


「俺のことを覚えてるのか」

「もちろん、覚えてるよ? 春休みなのに、わたしの進学する高校の制服を着ていた先輩だったから、ちゃんと覚えてる」


 うちの高校は進学校じゃないし、春休みに補習もない。

 あの日、俺は初めて制服を着て、渚紗に会いに行ったんだ。


 今まで何度も渚紗の墓を訪れたことはあったけど、高校の制服を着ることだけは避けていた。

 高校の制服を渚紗に見せることに、抵抗があった。


 それは渚紗のいない世界で、俺だけ時間が進んでしまったことへの恐怖からだと思う。

 渚紗のいない世界で、俺だけが時を進めてしまった。


 中学校を卒業して、高校生になって、それら全てが許せなかった。

 渚紗がいないのに、自分だけが変わっていくことがどうしようもなく悲しくて寂しかった。


 せめてもの抵抗として、俺は制服だけを渚紗の墓参りに着て行かなかった。

 そうすれば、俺はまだ渚紗が死ぬ前のままだって思えたから。


 でも、真白と出会った。

 彼女との会話に世界に現実味を持てた。


 彼女から逃げようとしたのに、彼女は追いかけてくれた。

 まっすぐに想いをぶつけてくれた。


 それは否応なしに俺に認めさせてくれた、自分の時間が確かに動いたことを。

 真白と付き合って、自分の隣に愛する人がまた出来たことを。


 勇気が持てた。


 自分が高校生になったことを。

 そして、渚紗が死んだことを認める勇気が。


 だから、春休みに制服を着て、渚紗の墓参りに行ったんだ。

 渚紗に、高校生になったことを報告するために。


「気持ちは嬉しいけど、これは多すぎるよ?」

「え?」


 水無瀬の声で、はっと我に返った。


「君がわたしのファンで、わたしを応援してくれているのは分かったけど、さすがに一人では全部は飲めないよ」

「あっ……」

「えっ! 今ここに置くの!?」


 どうやら、俺が抱えているジュースが彼女への差し入れだと思われたみたい。

 誤解を素早く解くために、あと、ちょっと重たくて立ち話に向いてないから、プレミアムゴールデンカフェを含めた缶ジュースやらペットボトルやらを地面に置かせてもらった。


 倒れたコーラを直して、と。

 これで落ち着いて会話ができる。


「君! なんでジュースを並べてるの!? わたしへの差し入れじゃなかったの!?」


 ほら、簡単に誤解が解けた。

 ツッコミを入れられる側に立つのは新鮮な感覚だけど。


「あとこのプレミアムゴールデンカフェってほんとに買う人いたの!? 古坂高校の七不思議なんだけど!」


 風が吹いてなくとも、忙しなく動いてる水無瀬の明るいオレンジの髪が揺れている。

 さっきまで自慢げに上がっていた口角は、さらに驚きで上がってしまっている。


 まあ、無理もないか。

 罰ゲームみたいなもんじゃなければ、俺もこのプレミアムゴールデンカフェを買うことはなかった。第一、チョイスが高校生向けじゃないし、第二、値段も高校生向けではない。


「それで、なにしてたの?」

「こっちのセリフだよ!? 今一番『なにしてたの?』って聞かれなければならないのは君のほうだよ!?」

「ちょっと校舎の空気吸いたかったから」

「このジュースの軍団と関係ないじゃん!!」

「関係ないね」

「……」

「……」

「わたしのこと気になっちゃった? 気になったらもう君の負けだよ?」

「それで仕切り直すのは少し強引だと思うけど」

「君が全然話噛み合わないからだよ!!」


 なぜか涙目になっている水無瀬。

 少し可哀想だから、地面に置かれている自分のために買ったオレンジジュースに手を伸ばした。


「これあげるから元気出しなよ」

「やはり差し入れじゃん……」


 文句を言いながらも、俯いて必死にキャップを捻って、水無瀬はごくごくとオレンジジュースを飲み出した。


「やはり喉乾いたんだ」

「なんで分かったの?」

「そんな大声をずっと出してたらな」

「仕方ないじゃん……一年生の路上演説なんて誰も聞かないから……」


 やはり、うちの生徒会長選挙は一年生には厳しいらしい。

 さっきまで明るかった水無瀬の表情も、今は少し曇っている。


「そうだ! 先輩! わたしの選挙手伝ってよ!」


 かと思えば、彼女はまたぱあと、一枚一枚の花びらが丁寧に織り込まれたマリーゴールドのような笑顔を浮かべた。

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