第30話 君を愛してる

……凪くん……凪くん……起きてよ……」


 聞き慣れた鈴を転がすような声で呼ばれて、目を覚ます。

 目の前に、俺の頭を抱きかかえて泣き崩れている栗花落の姿があった。


「栗花落……なんでここにいるの?」

「それはこっちのセリフだよ……なんで凪くんはここに倒れてるの……? なんで頭から血出てるの……? なんでこんなに呼んでるのに、目を覚まさなかったの……?」

「あはは、言わないとだめ?」

「だめ……」


 栗花落は泣きながらも力強く肯定した。


「一色先輩に、ちょっとね……」

「えっ」

「あの人は……執念深いから」

「だから、あのとき一色先輩にそんなことを言ったの……? 私を守るために……?」

「栗花落はなんでもお見通しだね」


 不思議と痛みはない。自然と微笑むことができた。


「もう大丈夫だよ……救急車呼んだから……」


 栗花落は手を俺の頬に添えて、優しく撫ではじめる。その手を俺は自分の手を重ねて、握りしめた。


「ありがとう……栗花落、少しだけ俺の話を聞いてくれるか」

「……うん」


 栗花落はゆっくり頷いて、俺の言葉を待った。


「俺には大切な幼馴染がいた……」


 そこから、彼女は黙ったまま、俺の話を聞いてくれた。


「とてもとても大切な女の子で、俺の愛している人だよ……いつも一緒にいて、家族同然に育って……」

「……」

「でもね、中学二年生の冬……彼女は死んだんだ……肺がんで……」

「……!」


 それを聞いて、栗花落は驚いた顔をした。


「名前は伊織渚紗……俺の大切な人……ほんとにすごく大切な人なんだ……彼女は最期に、俺の部屋に来て、『わたしは、なーくんのことが好き』って言ってくれた……そのあと、彼女の心臓が止まったんだ……」


 言葉にしようとしたら、嗚咽しそうになる。たどたどしく、俺は栗花落に渚紗の最期を話した。


「そうか……は渚紗というのね……」


 栗花落は渚紗のことを知っているのだろうか。そう思わせるような言い方だった。


「渚紗が死んだその瞬間、気づいてしまった……俺は渚紗に恋しているんだって……もちろん、今も……」

「……うん」

「彼女への想いを裏切りたくなくて……彼女のことを忘れたくなくて……栗花落を拒絶したんだ」


 栗花落の琥珀色の瞳から溢れた雫は、俺の頬に滴り落ちて、少しくすぐったい。


「栗花落だから、拒絶したんだ……」

「……え?」


 俺の言葉の意味を理解できなかったといった感じで、栗花落は疑問の声を漏らした。


「俺は渚紗が死んでから……誰のことも好きになれなかった……でも、入学式で初めてに会ったとき、恋をしてしまった……それをずっと胸の奥にしまって、気付かぬふりをしていたんだ……」

「……凪くん」

「君と添い寝するようになって、君が無表情で無機質な人間じゃないことを知った……ほんとはすごく寂しがり屋で、甘えん坊で、どこにでもいる普通の女の子だって……君の笑顔を独り占めしたいけど、俺は渚紗への気持ちを裏切りたくなくて、君を拒絶したんだ……だから、その権利はないと思った……」


 栗花落の目から、さらに水色の粒がこぼれ落ちて、顔に二筋の涙痕るいこんができた。


「だから、文化祭の最後に、君が普通の女の子だってことをみんなに教えたかった……とてもとても可愛い姫様だけど……決して人形じゃないって……たとえ、俺だけに向けていた笑顔が他の人にも向けられるようになっても……」

「凪くんのばか!!」


 急に発せられた栗花落の言葉に思わずきょとんとする。


「私は……凪くんさえいればいいのに……凪くんがそばにいればいいのに……凪くんだけがそれで幸せなのに……ほかの人にどう思われようと、笑顔もできない女の子だって思われようと、私は凪くんが私の笑顔を見てくれたら、それでいいんだよ……! 私だけを見てよ!!」


 叫ぶように綴られた栗花落の言葉に、俺の胸はきつく締め付けられた。


 そうか……俺の独りよがりだったんだね……栗花落の気持ち分かってるつもりで、結局やってるのはただの自己満足だったんだ……。


 彼女の言葉で、出しかけていた答えを見つけることができた。

 やはり栗花落はひまわりが似合う女の子なんだな。


 もう栗花落の痛ましげな顔を見たくないと思ったのに、また彼女にこんな顔をさせてしまった。

 今度こそ、もう後悔したくない。


 渚紗……君に会うまで、少し遠回りしてもいいかな……。


「栗花落、俺は、君を愛してる」


 勇気を振り絞って、俺のほんとの気持ちを口にした。


 俺の言葉を聞いて、栗花落は涙を流しながら、ひまわりのような笑顔を浮かべた。


「私の笑顔は……凪くんだけのものです」


 はにかむように、恥じらうように、栗花落は照れくさそうに笑った。

 その笑顔が今の俺の全てなんだ。


 もう彼女を泣かしたくない……もう痛ましげな顔をさせたくない……今度こそ、彼女の笑顔を独り占めするんだ。

 もうほかの人に教えない。栗花落がすごくすごく可愛い女の子なんだって。今度こそ、彼女だけを見るんだ。


「ありがとう……

「はい……凪くん」


 救急車のサイレン音が近づいてきて、俺は真白に語りかける。


「少し待っててね、必ず真白の元に帰ってくるから」

「待ってます……凪くんのことずっと待ってます」


 俺は真白を愛してしまっている。

 『運命の人』が二人もいるなんて、俺は恵まれているんだな、と少し神様に感謝した。


 渚紗の笑顔が脳裏に浮かんで、


 ――大丈夫だよ……なーくんのこと、ずっと見守っているから……。


 と彼女の声が聞こえた気がした。


 浮気した男にそんなことを言うのかなと、少し都合のいい解釈をする自分に苦笑して、「ありがとう」と心の中で返事をしておいた。


 


 救急車に運ばれていく俺に、手を振っている真白を見て、早くこの子のところに帰りたいと思った。


 きっと、ひまわりの花言葉―――『私はあなただけを見つめる』に続きがあったら、それは『だから、あなたも私を見て』なのだろう。

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