第28話 曇天

 最愛の女の子を失った。


 渚紗は死んだ。


 俺の目の前で呼吸が止まって、彼女の胸に手を当てても、心臓の鼓動は感じられない。


「ねえ、渚紗……」


 口を突いて出た言葉はもう彼女に届くことはない。

 そう悟った瞬間、心が壊れた。


「渚紗……渚紗……起きてよ……」


 それでも渚紗を呼び続けたのは、これが夢だと思ったのかな……?

 自分でも理由が分からず、ただただ彼女の名前を呼び続けた。


 渚紗は治ると必死に信じようとした……。

 信じようとしたのに……。


「まだお前からげっ歯類の話をいっぱい聞きたいよ……まだ花言葉たくさん教えてもらいたいよ……」


 どんだけ話しかけても、渚紗の目は閉じられたまま、安らかに眠っているように見えた。

 苦しそうに呼吸している彼女の姿はもういない。その代わりに安心した顔で眠っている。


 それだけが唯一の救いだった……。


「お前にまだ伝えてないんだよ……愛してる……愛してる……ずっと愛しているよ……分かってたのに、気づいてなかった……お前がいれば、もうなにもいらないって、今更気づいたよ……ずっとお前のこと愛しているよ……」


 涙なのか鼻水なのか分からない液体が俺の顔からこぼれ落ちていく。


「お前のことが大好きだよ……」


 言葉にして、自分の気持ちを自覚する。

 誰よりも、渚紗のことが好きなんだ……俺は彼女に恋しているんだ。


 中学生になったから、彼女が欲しいという理由で、女の子を意識したのとはまったく違って、俺はちゃんと渚紗に恋しているんだ。

 今まで女の子のことを本気で好きになれなかった理由が今になって分かってしまった。


 俺の心はすでに渚紗が全部占めていて、そこにはもうほかの女の子が入り込む余地がなく、隅々まで渚紗の色に染まっている……。


 『運命の人なんて存在しない。それは誰よりも早く出会って、一緒に幸せな時間を過ごした恋人に抱く幻覚』だって誰かから聞いたことがある。

 タイミングが合って、その人と付き合って、関係が深まっていく中で相手を運命の人だと思うようになるのが『運命の人』の真実だって。


 でも、俺は違うと思うんだ……。


 君だから、俺は愛することができた。恋心に気づかないほど、君は俺の日常になっていた。もし、そこに運命がなければ、俺は奇跡と名付けたい。それだけ、君のことが特別なんだ……。


 俺は決めた……この恋を忘れないって……これからも渚紗だけを見るって……この大切な想いを一生胸に抱えて生きていくって……。

 誰かを好きになって渚紗を忘れるくらいなら、渚紗への気持ちが薄れるくらいなら、もう一生恋しなくてもいい。


 自分だけでも、この気持ちを、この想いを踏みにじりたくない。


 俺は死というものを知って、そして、さらに分からなくなった。

 なんで、渚紗はここにいるのに、俺の声が聞こえないのか疑問でしかなかった……。


 なんで、渚紗はここにいたのに、もう会えないのだろうか……。




 渚紗が死んだ日から、俺はしばらくの間、眠れなかった。

 やっと眠りについたとき、彼女の夢を見た。夢の中なのに、彼女が死んでいることを覚えているから、夢を見るのが怖くなった。


 夢で渚紗に会えた分だけ、起きた時はこの世が地獄に思えた。

 渚紗が死んだ日から、どこか現実味がなく、ずっと夢を見ている気分だった。


 夢の中はいつも長く感じられた。一日、一週間、一ヶ月が経過した感覚がするのに、起きたらたった一時間しか経っていないことが当たり前のようになった。起きたら最後、また眠りにつくのが難しかった。

 四六時中ずっと眠い……だから今という瞬間は現実味がなく、余計この世界が夢なんじゃないかと思ってしまう。


 渚紗が姿を思い出すと、目の前が真っ暗になって、気づいたら、涙があふれていた。

 渚紗がもういないということをふと思うと、叫んでしまった。


 これからもう二度と彼女の頭を撫でて、彼女の安心した顔を見ることができないんだ……。


 お母さんは一週間ほど泣き崩れていた。お父さんはリビングに姿を見せていない。

 俺の親にとって、渚紗は本物の娘同然なのだから。


 渚紗の母親から彼女の遺骨を一欠片ひとかけら渡された。渚紗の変わり果てた姿を見た瞬間、俺は意識を失いそうになって、慌てて頭を抱えて必死に失神しないように務めた。

 彼女のオレンジ色の髪も、はにかんだ笑顔も、フローラルの香りも、もうこの世に存在しないんだと思うと、世界の終わりのような錯覚がした。


 渚紗の遺骨をペンダントに入れて、俺の部屋の引き出しに入れた。

 何本ものマーガレットをアレンジメントに挿して、その隣に置いた。渚紗なら喜んでくれるだろうと思った。


 渚紗は花がとても似合う女の子なんだって、彼女がいなくなってから気づいた……。


 人生で初めてスプレーボトルを買って、毎日花に水をやるようにしている。それが俺の日課になった。

 枯れたら、また新しいマーガレットを買って、こまめに交換していた。


 彼女が俺の部屋に残したげっ歯類の図鑑を読んで、ほんとに可愛い生き物だなと思わず笑っては、彼女がいないことを思い出して、瞳が潤んだ。


 彼女がもういないことを意識すると、心が張り裂けそうになって、体から力が抜けていく。

 そのままベッドに倒れたこともあった……。


 君との時間が全然足りないんだよ……渚紗……。




 それから一年と少しが経って、俺は高校生になった。

 

 入学式の日は曇天どんてんだった。


 うちの最寄り駅から高校の最寄り駅まで七駅の距離はあるが、その日は五時にもう起きてしまったから、気まぐれに徒歩で学校に向かうことにした。


「行ってらっしゃい、新しい出会いがきっとなーくんを変えてくれるから、頑張ってね」


 お母さんは玄関で微笑みながら、俺を送り出した。

 その笑顔は無理して作られたものに見えないくらいには、お母さんは器用だった。


 家からしばらく歩いたところで、初めて通った川沿いに満開している桜並木が目に入った。

 風に吹かれて、桜の木の枝が揺れ、桜吹雪が舞い落ちる。


 視界が桜の花びらに覆い尽くされて、灰色の混じったピンク一色になった。

 曇天のせいか、揺れている桜の木の枝が俺に手向たむけしているように感じられた。


 こっちにおいでって……桜の花びらが優しく俺に手を振っているようだ。


 そのまま行きたいと思った。渚紗のいる世界へ……。


 渚紗がいなくなってから、毎年の春に見かける桜はみんな悲しみの色をしていた。


 涙はもう一年前ほど脆くなくなったが、不意に泣いたりすることはたまにある。

 知らぬ間に、泣いていることに気づいて、慌てて俯いて顔を隠す。


 分かっているよ……渚紗の死は一生乗り越えられないものだって。


 最愛の人の死を、人間が乗り越えられるほど強くない。

 それでも、みんなは頑張って生きてるんだって、俺は知ってしまったんだ……。


 新しい出会いなんていらない……誰かを好きになって君への気持ちを裏切りたくない……それならいっそ離れたほうがいい……俺は君だけを一生愛していたいんだ……。




 会いたいよ……渚紗……!!



 

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