第27話 愛する人

「ねぇねぇ、なーくん」

「なんだ? 


 渚紗に呼ばれて、彼女のほうを向く。明るいオレンジ色のショートな髪が内巻きになって、彼女のあどけない顔を包み込む。少し口角をあげて、にやりと笑った彼女はキリッとした目を輝かせて、どうやらまたご自慢の知識を披露しようとしてるらしい。


「とうとうなぎさの『な』の字もなくなったのね……」

「だって、なあのすけって呼ぶと、俺にもダメージ来るし、無難にお前の苗字の『伊織いおり』から取ったんだぜ」

「そこは保身に走らないで!? あと、自慢げに言わないでよ!? 全っ然うまくないんだからね?」


 いつもの通学路を渚紗と二人肩を並べて歩いている。どうやら渚紗は今の呼び方に不満らしく、ダンダンダンと俺の前へ走って、こっちに向き直すと、手を後ろに結んで綺麗に腰を折った。

 すると、上目遣いになった彼女は、楽しそうにダメだしをしてくる。俺としては、なかなかの出来だと思っていただけに、ショックはかなりでかい。


 その間、彼女のな香りだけが取り残されて、俺の周りを漂っていた。すごく安心する匂いで、俺の大好きな渚紗の匂い。

 それを嗅ぐだけで、心が満たされて、愛しさが込み上げてくる。


「なーくんは知ってた? うさぎって実はげっ歯類じゃないんだよね」

「へえ」

「あっ、それ全然興味ないやつだ!」

「ソンナコトナイヨ」


 気持ちがこもっていない俺の返事に、渚紗は頬を膨らませた。それは、彼女が飼っているゴールデンハムスターがひまわりの種を頬張っている光景を思い出させて、すごく愛らしい。


「つまり、うさぎはとてもとても可愛いのに、ハムスターとかリスやモモンガの仲間じゃないってことだよ! びっくりでしょう?」

「えっと、確か、前に渚紗から、カピバラもげっ歯類って聞いたけど、その仲間に加えてやらないんだね」

「え、えっと、カ、カピバラさんもち、ちゃんと可愛いよ……」

「そこは差別するんだね……」

「区別って言ってよ!」


 つい先日ドヤ顔で「カピバラもげっ歯類だよ!」って教えてくれた渚紗がそのカピバラをハムスターたちと一緒に言及しなかったから、敢えてそこを指摘してやると、彼女は分かりやすく目をもの凄い速さで泳がせていた。


「はいはい」

「もー、すぐそうやって誤魔化すから……」


 ご機嫌ななめの渚紗の頭に手を置いて、くように撫でると、彼女はすっかり元気になって、そのまま二人で歩みを再開した。


「ところでさ、なーちゃん」

「なぁに?」

「そのぺったんこはいつまで経っても成長しないんだね」

「なーくんは今すぐ警察に捕まったらいいのに!!」


 俺はお兄ちゃん的に、真剣に彼女の成長を悩んでいるのに、なぜか渚紗はすごく怒っていた。女の子ってほんとに複雑で理解出来ない生き物なんだなってまた渚紗に思い知らされた。




 家が近所で、歳も同じだから、俺は渚紗と兄妹同然に育った。同じ中学校に進学しても、俺は相変わらず彼女と一緒に登校している。

 こうやって、他愛のない話をしながら、彼女の頭を撫でてたら、いつの間にか学校に着いてたなんてことは数え知れない。

 

 渚紗は俺にとって、本物の妹のような誰よりも大切な存在で、誰かが彼女を泣かせたら我を忘れる自信はある。

 彼女を色んな呼び方で呼びかけるのが好きで、渚紗のことを呼んでいる時は心が満たされていて、この上ない幸福感に包まれる。


 渚紗はまるで俺の心臓のように思えて、俺の命よりも大切で、彼女が笑っているからこそ、俺の心臓は今日も脈を打っているように感じられた。


 げっ歯類の他に、渚紗は花にも詳しかった。おかげで、思春期男子である俺は花言葉をたくさん知ってしまった。

 ひまわりの花言葉は『私はあなただけを見つめる』で、マーガレットの花言葉は『真実の愛』というくらいには知っていた。


 正直花言葉より、女の子のスカートの中身のほうが興味あるのだが、生憎、知る機会が訪れなかった……。


 ただ、俺も男の子なので、中学二年生の夏に気になる人が出来た。

 それが原因で、渚紗が俺の部屋にいる時も、その女子のことについて考えたり、RINEの返事をそわそわしながら待っていたりと、渚紗のことを疎かにしていた。




 そんな時が過ぎ、季節が冬に変わったある日のこと。


 渚紗との日常を当たり前のように思っている俺にとって、彼女が告げた言葉は現実味がなかった……。


「なーくん、わたし死ぬみたい……」


 突然告げられた渚紗の言葉を理解できず、俺は「え?」と問い返すしかできなかった。


「肺がんだって……」

「いやいや、冗談だろう!! だって渚紗はまだ中学生だよ!! そんなはずないよ!!」

「先生もこの歳にしては珍しいって言ってた……あと一ヶ月生きられるかどうかだって……」


 ふざけんなよ!! こんなこと冗談でも言っちゃいけないよ!!


 そんな医者の診断を疑うことに全神経を使っている俺に、渚紗は打ち明けてくれた。


「少し前から呼吸が苦しいの……」


 これより説得力のある言葉はなかった。気づいたら、俺は泣き崩れていた……。


 この日から、俺は自分の心臓がいつ止まってもおかしくないほどのおぼつかない感覚にさいなまれ続けた。




「……渚紗」


 彼女の話を聞いてから、俺は学校に行っていない。部屋に塞ぎ込んで泣いては、必死に頭を叩いて、これが夢なら覚めてほしいと切に願った。

 何年も経過したような感覚なのに、実際あれから六日しか経っていない。


 インターフォンが鳴って、俺しかいない家のドアを開けると、寝巻き姿のままの渚紗がいた。


「ねぇ、なーくんの部屋に行ってもいい?」

「……うん」


 二階に上がって、俺の部屋に入ると、渚紗は俺のベッドの上に腰をかけて、ゆっくり横になった。


「なーくんに話さなくちゃいけないことがあるの」

「うん……なんでも聞くよ……」


 もう、渚紗の言葉をこれから一言一句聞き逃すつもりはない。

 彼女の病気はきっと治って、また一緒に登校して、俺、もしくは彼女の部屋でまた一緒に遊んで、今度こそほかの女の子のこと考えずに、渚紗だけを見るんだ。


 俺は騙すように、そう自分に言い聞かせ続けた。

 もしかしたら、ほんとに治るかもしれない。ネットで色々調べたけど、ある日急に癌が治ったっていう人だってたくさんいる……だから、俺はその可能性にすがりついた。


 今度こそ、ちゃんと君との時間を大切にする。君のことをちゃんと見て、君の存在を心で感じるから……。


「わたしは、なーくんのことが好き」


 渚紗ははにかんで言葉を続ける。


「もちろん恋人になりたいという意味で」


 この瞬間、やっと分かった。分かってしまった。

 俺は渚紗を妹として見ていなかった。俺は渚紗に恋をしているんだ。


 渚紗のことを愛しているがゆえに、近すぎるがために、この感情の名前をはき違えていたんだ……。


「渚紗、俺も……」


 そう言いかけて、彼女は自分の人差し指を俺の唇に触れさせて、笑顔を浮かべる。


「大丈夫だよ……なーくんのこと、ずっと見守っているから……」


 この言葉を最後に、彼女の心臓は止まってしまった……。


 彼女は人生の最後の瞬間を俺と一緒に過ごしてくれた。この事実が、どうしようもなく俺の胸を締め付けてしまう……。

 

 中学二年生の冬、渚紗は死んだ……。

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