第13話 人形姫との夜

「東雲くんって童貞ですか……?」


 歯磨きしたあと、コンビニで下着のついでに買った防寒スウェットに着替えて俺は遠慮がちに人形姫のベッドに上がり、壁側を陣取った。

 今更何を遠慮しているのかと思うかもしれないが、昼と夜の間には決して越えられない壁があって、その差は断崖絶壁よりも高い。


 自分が用意した囚人服を着なかったことを少し不満に思った人形姫に、「平日の昼はちゃんと着るから」と言うと、「じゃ、毎日洗濯しときますね」とすぐに機嫌を直してくれた。

 たぶん、自分の用意した服を着てもらえるというより、これから俺が学校帰りの日は毎日添い寝するという約束をちゃんと果たしくてくれるだろうということに満足したのだろう。


 俺に続いておずおずとベッドに横になる人形姫は俺に背を向けた格好で布団を被った。

 二人して背を向けあって、しばらくの沈黙が流れた後、今の爆弾である。


「セクハラですか……?」


 思わず敬語になってしまうほど、動揺して呆れたものである。

 

 ただでさえ多感な男子高校生が、学校一の美少女と、夜、二人で、同じベッドで寝ているという状況に、戸惑いやら躊躇いやらを抱えているというのに、この女の子は一体全体何を考えてその質問してのけたのだろう。


「わ、私、セクハラしてたんですか!?」

「……なぜお前が慌てる!?」


 ぐっとため息を漏らすと、隣から寝返りを打った衣擦れの音がした。

 そして、ぴたりと背中にくっついた温もりがして、フローラルの香りが漂ってくる。


「童貞って聞くのってセクハラなんですか……?」

「『童貞』って言うな! 言わせようとするな! てかセクハラの定義を俺に説明させるな!」


 恥ずかしさが込み上げてくる。背中に感じる柔らかいものに全神経が集中する。

 それと同時に、胃もたれしたようなズキズキした痛みがして、改めて『童貞』という言葉の破壊力を思い知った。


「だって、聞いたことがあるんです」

「なにを?」

「男の人って一度でもしたことがあるなら、我慢できなくなるって」

「何が言いたい……?」

「その……だから……何もしない東雲くんは童貞なのかなって」

「…………ばかか、お前は」


 いつもよりため気味で、ため息混じりに呟いた。


 確かに、童貞なら女の子を前にしても、どういうふうにすればいいのか経験がないから分からないし、性欲に身を委ねるほど未知のものに恐怖とハードルを感じていないわけではない。

 でも、俺が人形姫になにもしないのはちゃんとした別の理由がある。あと、俺が童貞かどうかは別に今の時点で関係ない話だし、そもそもどうでもいい話ではないだろうか?


「添い寝する時にルール決めただろう?」

「確かに、お互いに相手の際どいところ触らないって話でしたが、そもそもそれは東雲くんから言い出したことで……」

「そのほうが栗花落にとって安心するんじゃないのか?」

「それはそうですけど……添い寝しようって言った時点で多少は我慢しようって……」

「ほんとにビッチ―――」

「―――ビッチじゃないです!!」


 今のカミングアウトは眠気が全部吹き飛ぶくらい衝撃的だった。

 思わず脊髄反射で『ビッチ』と口にしてしまったが、これもまた人形姫が条件反射のように否定してみせた。


「それだけ、東雲くんと添い寝したかったんです……」


 背中に、人形姫の小さな両手の感触が添えられて、ハッとする。

 一瞬体でなんでも解決しようとするビッチだと思ったが、どうも今の言い方はその切り札を初めて切ったニュアンスがある。それほど、俺を求めているということなのだろうか……それなら、その理由は果たしてなんなのだろう。


「……また失礼なこと考えてる気がするぅ」


 人形姫の顔が見えてなくても、ジト目で睨まれているところはなぜか想像できた。

 その少し伸ばした語尾は、不満が混じっている証拠のようなものだった。


 「コホン」と咳払いして―――


「ソンナコトナイヨ」


 ―――と棒読み気味に誤魔化す。


「ほんとですか……?」


 後ろから聞こえてくる鈴を転がすような可愛らしい天真爛漫という言葉が相応しい声に、良心と胸が締め付けられる。


「……それと、俺が童貞かどうかということは置いといて……」

「置いとくんですか!?」

「置いとくんだよ!!」


 どんだけ俺が童貞かどうかってことを追求したいんだよ!!

 

 ベッドの上に横になってからまだ十分も経っていないと思うが、どっと疲れたような気がする。ベッドの機能と定義がひっくり返されるのではないかと心配になる。まあ、そういう場合もあるのは否定しないが。


 ―― 東雲くんって、その……すごく安心するんです……。


 人形姫が添い寝を持ちかけてきた時に言った言葉。それが俺の胸の中でずっと響いていた。

 どういうわけか、彼女は俺に安心感を求めている。だからこそ、彼女を安心させたくて、『お互いの際どいところは触らない』と約束したのが俺の本音だ。


「栗花落はもっと自分のことを大事にしろ」

「……」


 彼女に安心感を求められて、安心させたくて、自分を律するためにそういうルールを設けたのは俺の偽らざる心情だった。

 でも、自分でもびっくりするくらい、俺は人形姫に邪な気持ちにならなかった。大切にしたいという思いが先に来て、それが彼女への感情の全てになって、そしたら、不思議と胸がザワつくものの、そういういやらしい気持ちは湧いてこなかった。


 だから、イライラした。俺が大切にしようとしてるのに、自分自身が自分のことを大切にしてなかったらと思うと、やるせない気持ちになって、それが今の言葉となった。


「男に簡単に体を許すな。触れさせるな。大切な人と出会った時に後悔しないように、自分のことを大切にしろ」

「……独り占めしたいってこと?」

「ちがっ」


 よくよく考えたら、『体を許すな』は親父臭い説教として片付けられるが、『触れさせるな』は独占欲からきた言い方と思われても仕方がない。

 慌てて否定しようとして、言い終わらないうちに、人形姫は話し続けた。


「……東雲くんになら、私の初めてをあげてもいいと思ったけどね」


 まったく予想していなかった人形姫の言葉に、てんやわんやになる。

 全身の血管が膨張して、血流が加速しているような感覚が苦しい。胸がむず痒く、普段の呼吸のリズムを忘れ、動悸が激しくなる。


 このいたたまれなさから逃げるように、俺は―――


「え?」

「こういうの初めてだろう?」


 ―――振り返って、人形姫と見つめ合う形になる。そして、彼女の手を探して、自分の小指を彼女の小指に引っ掛けた。

 少し驚いたように声を出したが、すぐにひまわりのような笑顔がカーテンの隙間からわずかに差し込んでくる月光に照らされ、この世のものとは思えないほどの美しさを織り成す。


「はい……初めてです……」


 嬉しそうに笑う人形姫が無邪気な子供のように見えた。


「……初めて、貰われちゃいました」


 はにかんで、そんな可愛らしい言葉を吐露する。




「ところで、東雲くんはやはり童貞ですか……?」

「とりあえずそのことから離れようか?」


 小悪魔みたいな顔をして、野暮なことを聞いてこなかったら、本物の天使だと思えたのに……。

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