第29話 月夜(2)

 「どうしてあやのあたえ文人ふみひと鷦鷯さざきを悪く言うの?」

 その文人たちに従って、鷦鷯はふみを学んでいるというのに。

 しかも、鷦鷯としては、やりたくないことを、その心をおさえて学んでいるのだ。

 うめははっきりと答える。

 「なかなか学ぼうとなさらないうえに、すぐに腹をお立てになるからです」

 「ああ」

 それはそうだろうな、と、姫は思う。

 梅が続ける。

 「文を学んでいらっしゃるので、文字もんじを書く木のふだけずるためにいつも小刀をお持ちなのですが、いらいらなさると、その小刀を机に突き立てたり、わざと木の札を小刀で断ち割ったりなさると」

 「鷦鷯らしい」

 姫はそう言うしかない。

 そういう子なのだ。

 姫の前でも、筆をすずりというものにたたきつけ、墨を飛び散らせていた。

 「それに、鷦鷯さまは、文もお覚えにならぬと」

 「うん」

 もともと、暴れ者ではあるが、物覚えが悪いということはなかった。細かいことまでよく覚えている子だった。

 海の果ての国の文などもともと覚えたくないのか、その平群へぐりの姫に心を奪われての文を覚えているどころではないのか。

 もしかすると、と姫は思う。

 その小刀で文人たちをおどすようなこともしているかも知れない。

 鷦鷯さざきならそれもやりそうだ。

 それならば、文人たちとて、鷦鷯を悪く言いたくなるだろう。

 「そのことは」

と姫がく。

 「父上や母上は知っていらっしゃるの?」

 それは姫の御言みことちが知っていなければならないことではない。

 姫だって知らないし、知ろうとしてはこなかった。

 でも、梅は答える。

 「お母上の大后おおきさきさまは知っていらっしゃる、ということです。鷦鷯さまが文人たちのところから逃げて大后さまのところに逃げて隠れようとして、大后さまにしかられて文人ふみひとたちのもとに戻される、ということがいくたびかあったといいます。そのことを、大后さまは大王おおきみさまにはお伝えしておられないようです。しかし、官人かんにんや、文人ふみひとがみずから伝えているかも知れません」

 「知っているのではないかなぁ」

と姫は言う。

 息をつき、乱れていたふすまを胸のところまで引き上げて整える。

 「父は、鷦鷯の学びを妨げないで、と言っていたでしょう? うまく進んでいないことは知ってるんだよ」

 「はい」

 梅はすなおにそう答える。そのまま

「大王さまもその文人らに文を学んでおられます」

と言う。

 それはそうだろう。

 しかも、白髪しらか大王のおおきみに招かれて大和やまとに来たころから学んでいたのだろうと思う。

 「上は大王から下はたみまで、生まれ持った身のたかひくさをたもつことで、大王の尊さを保つ、ということを、大王さまはおっしゃいましたよね?」

 梅が言って、姫に軽く顔を向ける。

 「うん」

 姫が何も求めないのに、梅から話を切り出すとは、どういうことだろう?

 たしかに父大王はそんな話をしていたが。

 梅が言う。

 「石上いそのかみの神の宮でいて来ました。それは、封建ほうけんと言い、あやの国の、とせも昔の国の成り立ちなのだそうです」

 「千年?」

 千年と言われても、よくわからない。

 「そうです」

と梅が言う。

 「大王さまの高祖たかつおやも、物部もののべ大伴おおともの高祖もまだあめの上におられた、そのころの漢の国の成り立ちなのだそうです」

 「それは」

と言いかけて、姫はことばを止める。

 あのかまどの煙のさまを見てみつぎを止められたおお鷦鷯さざきのみことよりも、石上の神の宮にあの七枝ななえかたなをもたらされた息長おきなが足姫たらしひめのみことの世よりも、いまよりもずっと狭かった大和やまとの国をお治めになった御間城みまき入彦いりひこのみことの世よりも、ずっとずっと昔だ。

 どれほどの昔なのか。

 姫の身ではわかりようもない。

 いや。

 それよりも。

 いま、梅は「そのころの漢の国の成り立ち」と言った。

 それは?

 「つまり、いまは違うということなの?」

 「はい」

と梅はすぐに答えた。

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