第28話 月夜(1)

 姫は御言みことちのうめ臥所ふしどとこを並べて寝ている。

 今宵こよいは闇ではない。

 月がさやかに照らしている。

 この宮は石上いそのかみの森のなかにある。

 その森に月が照ると、暗いところは深く沈んで見え、明るいところは色を奪われてえわたる。

 その月夜の森のありさまは、昼の緑豊かな森とは違っている。

 神様が見ていらっしゃるこの森とこの山はこの月夜のような姿なのかも知れぬ。

 この森と山とにはたしかに神様がいらっしゃるのだ。

 梅は、きれいに上を向いて寝ていた。まだ眠りに落ちてはいない。

 「梅」

と姫は声をかける。

 梅の返事を待たないまま

「どうして、梅は、鷦鷯さざきが学んでいるふみに書いてあることまで知っているの?」

と訊く。

 梅は細い声で答えた。

 「神の宮で聞きました」

 ここのところ、この梅は、石上の神の宮に行っていることが多い。

 姫に行くように言われているわけではないのに。

 いてみよう。

 訊いてはならないということもない。梅は姫の御言持ちなのだから、姫は何を訊いてもかまわないし、何を言いつけてもかまわない。

 「梅は神の宮で何をしているの?」

 「わたしは御言みことちですから、私のたましいは神様のもとにあります」

 御言持ちがなぜ主人の心がわかるかというと、その力を神様に授かっているから。

 だから、神様のところに行っている、ということだが。

 姫はそういう答えを求めたのではなかった。

 姫がそう思ったのに気づいたのだろう。梅が、くすっ、と笑う。

 「文人ふみひとあやのあたえばかりではありません。大伴おおとものむらじやから任那みまなとつながりが深いので、大伴の下にも任那から渡ってきた文人がいます」

 今度は、声を立てずに笑って、息をついた。

 「石上いそのかみつかさど物部もののべやからはそういうつながりがないので、大伴の下にいる文人らを石上の神の宮に招いています。鷦鷯さざきさまが漢直に文を習っているなら、それを知っておかなければならないというわけで、です。わたしはその文人らから聞いてきました」

 梅は、さっきの「神様のもとにあります」と言っていたときより、力の抜けた話しかたをするようになった。

 姫も軽くき返す。

 「そういうこと?」

 「はい」

 梅は悪びれない。

 そういうことは、主人の姫に言われてからやるものだ、と言ったほうがよいのかどうか。

 梅は続けて言う。

 「いま大王さまのもとにいる漢直の文人ふみひとらは、幼武わかたける大王のおおきみがお招きになった者たちです。そのなかには、高麗こまの国に攻められてからの国が危うくなったとき、幼武大王のもとに逃れてきた者も多くいます。その者たちが幼武大王を悪く言うわけがありません」

 命を救ってもらい、安らかに暮らすことのできるところたまわったから、だろう。

 しばらく、ことばを切ってから、梅は言う。

 「また、幼武大王の姫であられる母君に逆らうこともありません」

 「では、鷦鷯さざきあやふみがわかるきよ大王おおきみに、というのは、母上のお考えなの?」

 すぐに腹を立て、ひとにいきなり悪しきことばを浴びせ、力づくでその心のままにものごとを押し通そうとするのが、姫の母だ。

 そのどこに「礼」や「文」があるというのだろう?

 「それは、さきにきいても教えてくれませぬが」

 姫には親しくしてくれるが、いまひとつ心を許すことのできない、母の御言みことちの幸だ。

 あの娘にはあまり深く聞かぬほうがよいと思う。

 「おそらく、大后おおきさきさまは、鷦鷯さまが久しく安らかであるにはどうすればよいか、ということを文人たちに問われたのだと思います。そして、あやのあたえらからのその答えが、礼と文を身につけた聖き大王、というものなのでしょう」

 梅は、ほっ、と息をつく。

 「それは、父君の大王さまがいまあられる姿ともかよいます」

 たしかに、そうだ。

 おおいくさを率いて逆らう者をらすのも、くろがねつるぎ黄金こがね白銀しろがね文字もんじを刻んでおそれさせるというのも、父大王には似合わない。

 礼と文で国を治める。

 たしかに父にはそれが似合っている。

 父には似合っているのだが……。

 梅はいまもきれいな姿で体を横たえている。

 姫のところからは、その姿が月夜の森の前にかげになって見える。

 そのまま、月夜の光にまれて神様のところに行ってしまいそうなほどに見える。

 その梅が、半ばまどろんだような声で言う。

 「大伴おおとも文人ふみひとによると、漢直の文人どもは鷦鷯さざきさまを悪しざまに言っているということです」

 姫は驚いた。

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