第22話 幼武大王の影(5)

 「近江おうみの」

と言ってから、父はまだ迷う。

 しばらく目を閉じる。

 そのさまを、うめが横でじっと見ている。

 姫が黙っていると、

「その」

と父大王おおきみは話を始めた。

 「幼武わかたける大王のおおきみがまだ大王となると決まっていなかったころに、近江に、狭狭城ささきのやまのきみというやからがいて、それが、幼武のみこ押磐おしわのみこと、その二人を近江の蚊屋野かやのというところの狩りにお招きになったのだ。狭狭城山君が、そのころの幼武王に、押磐王を狩りに見せかけて殺すからその狩りを貸せと言われていた、とも言うが、まことかどうかはわからぬ」

 梅が横目で姫を見る。姫は黙って父の話を聞く。

 「何にしても、その狩りでより雄々おおしい姿を見せたほうが大王の位に近づく。狩りというのは、つまり、獣を相手にしたいくさだからな」

 狩りをうまく行えるものは、戦も巧く導ける、ということだろう。大王のなすべきことの一つが戦を導くことなのだから、それだけ大王らしいと認められる。

 父大王が続ける。

 「それを確かめるために、群臣まえつぎみたちをはじめ、とうといやからの者たちがこぞってその近江の蚊屋野かやのに行ったそうな」

 しばらく、ことばを切る。

 「この父も、父よりまだ小さかった弘計うぉけも、それに従って行ったはずなのだが、小さいりのころのこととて、まったく覚えておらぬ」

 そうだったのか。

 「その狩りので、幼武わかたけるのみこが、いのししとまちがえたと言って、わが父、押磐おしわのみこを弓でた。そして、わが父を守ろうと取りついたその佐伯さえき売輪のうるわもともにして殺したのだそうな」

 父大王は目をらした。姫からも、その隣のうめからも。

 「それはおみたちやそのともたちが見ていたことで、まちがいのないことだ。この父と弘計うぉけも殺されるところだったのだろうが、その場にいた何者かが、われら二人を抱いて馬に乗せて逃げた」

 父はまゆを寄せる。

 「そのとき、弘計とともに馬の背に乗せられ、その馬を操る大人おとなの腕のあいだに小さく身をちぢこめていたことは、なんとなく覚えている。この父が、押磐王が殺されたことについて覚えているすべてが、それだ」

 父は、言って、細かく首を振った。

 姫は、ことばが出ない。

 自分の親が殺されたのに、そこから逃げるところしか覚えていない。

 しかも、なぜ逃げているか、父にはわからなかったのだ。

 どんな心持ちだろう。

 「その逃がしてくれた大人がだれかは、わからぬのですか?」

 梅が言う。

 姫がことばが出ないときに、御言みことちとして、姫の問いたいことをいてくれたのだ。

 父大王はうなずいた。

 「弘計うぉけは、それがその置目おきめやからだったと思っていたようだが、この父にはよくわからぬ」

 なんとはなく遠回しな言いかただと姫は思う。

 何が言いたいのかはわからない。

 「そこから、近江より遠い北の海の近く、与謝よさというところに移り、そこにも幼武わかたける大王のおおきみの手が及びそうになって、あの播磨はりま明石あかしに移った。そのとき、おそらく、吉備きびのおみやからが間に入ってくれたのだろうと思う。それで幼武大王もわれらをきみの族として認めた。さきほど言ったように、幼武大王のもとに吉備の族の姫が嫁いでいたことのお蔭だろうな」

 播磨は吉備に近い。そして、たしかに、播磨の明石に住んでいるころは、大和の者たちもよく訪れてきていたが、吉備から来て明石に住んでいるたみも多かった。幼い姫にはよくわからなかったけど、吉備の官人かんにんつわものもいたことだろう。

 「そして、幼武大王の姫を、つまりおまえたちの母をこの父にめとらせた。幼武大王は、それでこの父と弘計をゆるし、認めたことにしたかったのだろう」

 自分で押磐おしわのみこを殺しておいて、遺されたその子たちを「赦す」なんて、よくそんな身勝手みがってができるものだ。

 それが「大王」というものの力なのか。

 「ならば」

と姫が言う。

 「その吉備臣をいまのまつりごとでももっと大王のそばにいさせてお用いになってはいかがですか? 父と弘計うぉけのみこを助けてくださった族なのですから」

 父がどう答えるかはわかっていた。

 梅もどんな答えかはわかっているのだろう。父が答える前から口もとをゆるめて笑っている。

 「だから」

 父は、言って、ふう、と鼻から息をついた。

 「そうはいかぬのだ」

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