第13話 夏の日に鷦鷯と(3)

 難しいことを並べて、鷦鷯さざきは落ち着きを取り戻したらしい。

 「あやの国をなぜ漢の国というか、姉上はご存じですか?」

 軽く閉じた口の端に、姉はそんなことは知るまい、という思いが表れている。

 知らない。

 知らないものは、しかたがない。

 姫は言い返す。

 「そういう国の名だから、じゃないの?」

 「大和やま」はどうやら山の入り口だから、らしい。「河内かわち」は、四方に川が流れ寄せていて、「河のうち」だからだろう。「山背やましろ」は山の多いところだから、「近江おうみ」は「淡海あわうみ」で、水のあわい、つまり水に塩の混じっていないみずうみがあるからだ。

 そこまではわかるのだが。

 播磨はりまがなぜ「播磨」なのか、吉備きびがなぜ「吉備」なのかと問われると、わからない。

 それより遠い百済くだら高麗こまがなぜ「くだら」や「こま」なのかは、ましてわからない。高麗の国には小馬しかいないから高麗こま、というわけでもないだろう。

 百済よりさらに遠いというあやのことなど、わかるはずもない。

 鷦鷯は、ふっ、と息を漏らして、あざけるように姉を見た。

 「漢の国では、人と人とのあいだに正しいあやが備わっているからです。国と国とのあいだにも正しい礼が備わっているからです。きみたかく、たみひくく、父はたかく、子はひくく、男はたかく、女はひくく。それがあやです。その礼が備わっていてこそ、天下てんかは治まる」

 「ふうん」

 姫も弟を見下した声を立ててやる。

 文人たちにいて、それはよいことだとも思ったけれど。

 言い返す。

 「でも、あやの国は、くれの国だよね?」

 百済くだらよりも遠く、大海をわたったはるかな先にあるのが、その呉という国だという。いま鷦鷯さざきが学んでいる文というのは、その呉の国から百済にもたらされ、百済からさらに大和やまとにもたらされた。

 だから、漢の文というのは、つまりは呉の文だ。そうだすると、漢の国は、呉の国だということになる。

 「その呉というのは、なぜ呉っていうの?」

 「知らないよ、そんなこと」

 鷦鷯が怒る。

 そんなので怒るなよ、と思うが。

 姫が怒らせるつもりで言ったのも確かだ。

 これは、「日のれる方にある国」だから「くれ」でいいのではないかな?

 少なくとも、そう言っておけば姉を黙らせることはできただろう。

 「あやのっとった国を造ってはじめて、この国も百済や高麗こまを服させることができるのです。姉上」

 鷦鷯はまた見下した顔つきで姉を見上げる。

 「そして、女は男よりも卑い、というのが礼の定めるところです。それを覆したのがその妲己だっき褒姒ほうじです。そのような女を許してはあやは乱れ、天下は乱れます」

 何それ?

 女が天下の乱れのもとだと?

 しかし、と、姫は思い出す。

 高祖たかつおやおお鷦鷯さざきのみことの父王は誉田別ほむたわけのみことといい、その父王はたらし仲彦なかつひこのみことといった。しかし足仲彦命は神様のおっしゃることをなみして亡くなった。足仲彦命の后だった息長おきなが足姫たらしひめのみことが、その神様のことばに従い、海を渡ってからの国を攻め、大和やまと御国みくに威光ひかりを輝かせたという。

 誉田別命も大鷦鷯命も男だが、神様の御言を蔑した足仲彦命も男で、韓の国を討っていさおしを挙げた息長足姫命は女だ。息長足姫命の世では女がきみだった。だいたい、大王おおきみ高祖たかつおやの神としておまつりする伊勢の神様は、おん二柱ふたはしらとも女神さまではないか。

 でも。

 そんな話は、鷦鷯さざきは聞いていないだろうと思う。

 だから、違うことを言ってみる。

 「そうは言っても、男だって女から生まれるんだよ。だから女だって尊いよ」

 遠い漢の国の話をすることもいらない。

 姫の母は、姫の父と同じくらいに尊いという顔をしている。

 しかし鷦鷯はそうは思わないらしい。

 吐き捨てるように言う。

 「その女の腹の中で、子というのがどう育っているのか、見てみたいものだ」

 姫はそのときの勢いで言ってしまった。

 「見てみれば?」

 言って、ふと気づく。

 いま、鷦鷯の間の戸も窓もすべて開け放ってある。

 それに、姉姫とそれぞれの御言みことちたちとともに話をしたときほど、声を抑えることを心がけてもいなかった。鷦鷯がそんなことを少しも心にかけずに大きな声を立てたからでもあるが、姫もそれに引きずられていた。

 いまの話はあやのあたい文人ふみひとたちに聞かれていたに違いない。

 それを思うと、ここで鷦鷯との話を続けたくはなかった。

 それに、暑い。

 姫の宮よりも風が通るはずなのに、暑い。

 姫は帰ることにした。

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