第4話 オペレーション・チョコレート
カーテンを閉め切った自室でベッドに寝転がりリズムゲームに集中していると、ジュリ先輩からメッセージを受信した。リズムゲーム途中の通知ほどゲーマーを苛せるものはなかったが、それ以上に日付が変わる10分前に連絡を入れる人はいないだろうと油断していたことを後悔した。
ひとまず強制的に中断させられたゲームを再開して一曲終わらせ(当然、ノーミスではなかった)、メッセージアプリを起動した。
『ユイカ、明日の午後って会える時間ある?』
つい先ほど送られてきたばかりのメッセージだ。疑問形でまだ3分のブランクもない。返事はすぐに来ると予想して、メッセージを返した。
『先輩の用事によります。午前中は講義入っているのでハードなやつなら断りたいです』
予想通り、メッセージはすぐに返ってきた。
『あははっ、正直だねえ! 実はバレンタインのお返しの試作をしようと思ってて、手伝ってほしいんだよ』
『試作って早くないですか? ホワイトデーまでまだ1ヶ月近くありますけど』
『できるだけ早く渡したいんだよ、ホワイトデーとか関係なくさ』
『わかりました。それならかまいません。時間あります』
『ありがとう! じゃあ材料は全部用意しておくから、そのまま明日また私の部屋に来て』
もはや退屈だとも感じられなくなってきた英語と天文歴史の講義を終えてジュリ先輩の下宿に向かう。校舎から歩道に出て冷たく澄んだ青空の下、小麦粉の匂いにつられて車道の反対側に並ぶ焼き菓子の店を視線で物色しながら歩く。昼食を買っていこうか迷っていると、ちょうど最寄りの地下鉄が到着したところだったのか、午後からの講義がてら友人と昼休みを過ごそうと校舎へ向かって流れる同じ制服の群れとはちあわせた。午前は休んで午後からの講義だけを取っている生徒はかなり多いのだ。昼食はあきらめて何とか彼女たちをかわしながら人波を逆流し、地下鉄の出入り口手前で裏道に入った。
裏道の人通りはまばらで、レストランや書店の窓ガラスに時々人影がちらつく程度だった。すれ違う人が減っただけで随分と気分が穏やかになる。
昨日も通った道を進んで、喫茶店と塾の間に挟まった雑居ビルの様相を残す建物のドアの前で立ち止まった。レンガ風の模様が刻まれた赤茶色の外壁は、1年前に塗りなおされたおかげでまだ大きな汚れは目立っていない。鞄からモバイル端末を取り出して時刻を確認する。12時半。少し早い気もするが、午後であることには違いない。ドアベルを鳴らして、エウロパが開けてくれるのを待った。
まもなく丸い銀色のドアノブが回転してドアが開いた。ドアの向こうには昨日と同じメイド服に身を包んだエウロパが微笑んでいる。
「お待ちしてましたよ、ユイカさん。ジュリさんは既に部屋であなたを待っています」
「そう、ありがとう」
軽く会釈して建物内に入り、振り返って静かにドアを閉めるエウロパの後ろ姿を眺めた。ふと昨日妙な質問をしてしまったことを思い出して、ちょっとした後悔と恥ずかしさが体温をわずかに上げた。この時ばかりはエウロパがアンドロイドであることがありがたかった。
エウロパにも昨日のやり取りは記憶として残っているだろうが、その記憶はどこまで行ってもただの記憶であり、決して思い出にはならない。私の定義では記憶と思い出の差は、そこに主観的な感情が含まれるかどうかによるからだ。
もし昨日のやり取りがエウロパの中で思い出になっているのなら、どんな風に処理されているのだろう。おもしろいやり取りだったと思い出して笑うだろうか。おかしなやつだ、と顔を合わせるたびに眉根を微かに寄せるようになるだろうか。
…………。
いや、やめよう。こんな「もし」の話は不毛だ。私は考えるのをやめて階段を上り、ジュリ先輩の部屋に向かった。
ドアをノックすると、制服の上からネイビーブルーのエプロンをかけたジュリ先輩が出迎えてくれた。
「思ったより早かったね、もしかして急いで来てくれた?」
まだ準備の最中だったのか、片手に板チョコやチョコペンの入ったビニール袋を握りしめている。散歩でもしてから来ればよかった、と少し後悔した。何故だか今日は後悔ばかりしている。
「いえ、今日はたまたま講義が時間通りに終わったので……」
「そっか。まあ取り敢えず入ってよ、荷物はソファの上にでも置いていいから」
「はい、ありがとうございます」
部屋に入ってソファの端にカバンを置き、小さなキッチンに材料や道具を並べるジュリ先輩のもとに戻る。隣に並び立ち、シンクとコンロの間の狭いスペースに所狭しと場所を取り合う大量の板チョコや調理器具に向かい合う。甘ったるい圧迫感に思わずため息が漏れる。これらをすべて使って試作するつもりなのか、とジュリ先輩を横目で伺うと、バチっと目が合った。
「よし、じゃあまずはチョコレートを溶かそうか」ジュリ先輩はどこか強気な笑みを浮かべた。
どことなくセナ先輩に似ていて、表情が移るほどの仲の良さにあきれつつも微笑ましさを覚えて自然と口角が上がった。
意外にも作業は難航しなかった。生チョコやムース、クランチなどオーブンレンジを使わなくても済む簡単なものばかりを選んだからというのもあるが、初心者2人が作ったにしては上出来だろう。
買い込んだチョコレートの半分を使った。板の状態では多く見えたが溶かしてしまえば案外少なく、完成したのは5人分程度だった。
「そうだユイカ、これ余ったチョコレート持って帰ってよ」ジュリ先輩は作りたてのクランチをつまみながら言った。
「いや、いいですよ。材料を全部用意したのは先輩ですから」
「昨日急に呼びつけたのにちゃんと来てくれて、試作を手伝ってくれたんだ。私に恩返しをさせてほしいな」
「……ではありがたく――」
いただいていきます、と続くはずだったが、階下からの激しい爆発のような放電音にかき消された。
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